聖書に意味の解らない言葉がよく出てくる。わかったと思っても歳のせいか、しばらくすると、また、わからなくなる。その一つがつぎである。
〈家を建てる者の捨てた石/これが隅の親石となった。〉(聖書協会共同訳)
これは、新約聖書の『マルコ福音書』12章 10節、『ルカ福音書』20章 17節、『マタイ福音書』21章 42節、旧約聖書の旧約聖書の『詩編』118編 022節に出てくる。原文は、次に示すギリシア語である。
〈 λίθον ὃν ἀπεδοκίμασαν οἱ οἰκοδομοῦντες οὗτος ἐγενήθη εἰς κεφαλὴν γωνίας 〉
最後の“κεφαλὴν γωνίας”が「隅の親石」と訳したところだ。
“κεφαλὴν”(ケファレーン)は、「長(おさ)」とか「頭(かしら)」とか「首長」の意味で、“γωνίας”(ゴーニアス)が「隅の石」である。聖書協会共同訳も新共同訳も「隅の親石」と訳しているが、口語訳では「隅のかしら石」と訳している。
じつは、この「隅の石」、ヘブライ語で “פנה”(ピンナー)は、民衆をまとめて戦うリーダーのことをいう。たとえば、旧約聖書の『ゼカリヤ書』10章04節に、つぎのようにある。
〈彼らから隅の石が/彼らから天幕の杭が/彼らから戦いの弓が/彼らからすべての指揮者が共に出る。〉
一度、わかったつもりになったのは、ある日、「隅」が「角」であることを発見したからだ。英語の聖書は「隅の石」をcornerstoneと訳している。
「隅」は、すみっこ、めだたないところだ。それは内側から見ればの話しだ。
神殿の土台を考えると、内側からみることはない。外側から見ると、「角」である。神殿をささえる石作りの土台を思い浮かべれば良いのだ。石組みが崩れないように抑えているのは角の石である。だから、「角の石」はリーダーなのだ。
今、わからなくなったのは、エルサレムの神殿前の広場で、イエスがそう言ったことで、どうして、祭司長、律法学者、長老が怒ったのか、ということである。かれらが、イエスを「隅の石」と思ったのであれば、イエスは「神の子」ではなく、リーダーの一人であると思ったことにある。「隅の石」は1つでなく、いくつもあるからだ。
すると、もし、イエスが本当に言ったなら、この句は、「家を建てる者」が「支配者たち」を、「隅の石」が「それに逆らう叛乱のリーダー」を指し、「次々と現れる反乱者の一人」だ、とイエスが自分を考えていたことになる。この解釈でいいのだろうか。