人間は何のために生きるのか、あるいは、何のために造られたのか、この問いは昔からある。
プロテスタントのなかのカルヴァン派は、ウエストミンスター小教理問答書に、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」と記す。ここは、「神が、神の栄光をたたえるために人間を造った」と よく誤解されるが、小教理問答書の真意は私にはわからない。なお、聖書のどこにもそのようなことは書いてない。
5000年前のシュメール人は、「神様は働きたくないから、働かすために人間を造った」と考えた。
旧約聖書にも、このシュメール人の神話の痕跡がある。旧約聖書の『創世記』1章26節に、
〈我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。〉(新共同訳)
とある。すなわち、神様は先に人間以外の生き物を作ったが、その管理が面倒だと気づいて、上のように言ったのである。中間管理職として「人間」を作ったのである。
なお、ここで、「我々」と神様が言ったのは、多神教の神話をパクった痕跡だと多くの研究者によって指摘されている。
ところで、『創世記』2章5節は、
〈地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。〉(新共同訳)
と、それまでと矛盾する記述となっている。神様が、先に人間を造り、後で生き物を造ったことになる。
しかし、人間の造り方にシュメール神話の痕跡がある。『創世記』2章7節には、
〈主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。〉(新共同訳)
とある。この「泥から人間を造った」が、シュメール神話の痕跡である。さらに、『創世記』2章15節に、
〈主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。〉(新共同訳)
とあるから、神様は小作農として人間を造ったことになる。1章26節より、人間の位置は下位になる。エデンの園は決して、楽園ではない。人間は、不在地主である神の農園の、従順な農業労働者であったというのが『創世記』の記述である。
なお、お気づきであると思うが、『創世記』には、世界の始めの2つの伝承があり、2章4節の中央がその境目にある。
〈これが天地創造の由来である。主なる神が地と天を造られたとき〉(新共同訳)
2章4節以前では、「天と地(השמים והארץ)」の順が守られ、以降では、「地と天(ארץ ושמים)」の順となる。単に天と地の順だけでなく、前者には定冠詞「ה」がついている。
神の名も変わる。2章4節以前は、神をエローヒーム(אלהים)と呼び、以降では、しばらく、ヤハウェ・エローヒーム(יהוה אלהים)を使っている。エローヒームは神の一般名詞で、ヤハウェはイスラエルの民が信じる神の固有名詞である。
それだけではない。前者のエローヒームという用法は、定冠詞も所有格もなく、旧約聖書のなかの他では見ない。普通は、定冠詞をつけるか、「あなたの神」「あなたがたの神」「私の神」「私たちの神」という使い方をする。
後者の用法も、旧約聖書のなかの他では見ない。ヤハウェとエローヒームを単純にならべない。日本人の感覚では「神であるヤハウェ」に違和感がないが、旧約聖書では、こういう用法はここだけである。「あなたの神、ヤハウェ」などのように、所有格や定冠詞が「神」につく。
とにかく、『創世記』の前半は、いろいろな部族の伝承を切り貼りしたもののようで、整合性は取れていない。
さて、本論に戻ると、私は「生きる目的」が不要だと思うし、「生きる目的」が言葉にされるとき、その人は、そして、社会は不幸な状態にあると思う。「目的」がなくても「生きる」のが健全な人間である、と私は思う。