猫じじいのブログ

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朝日新聞『官僚の忖度いつから』より、主権者は誰か、組織が民主的かだ

2021-01-27 23:24:07 | 政治時評
 
きょうの朝日新聞に『官僚の忖度いつから』というインタビュー記事がのっていた。答えるのは京都大学の島田博子だ。
 
それによると、官僚に求める「世論」がころころの変わってきている。
 
「戦後初期には、官僚は中立・専門性を隠れみのに特権を行使した権力だ、と野党から批判されていました。それが55年体制になると、逆に野党は、官僚は政治に中立であるべきだ、と強調するようになります。」
 
「この頃(1990年代半ば)から官僚に政権への『従属』を求める主張が強まりました。官僚は族議員ではなく、政権の方を向いて仕事をせよ、と。」
 
「選挙を経た政治家こそ官僚の人事を担う中立公正を持つ、との発言が2002年に初めて出てきました。」
 
これは、表面的な揺れだと思う。「官僚とは誰のために何をする組織か」から、論じる必要がある。
 
歴史的に見れば、官僚は権力者が中央集権化をすすめためにできた組織である。優秀な人材を集めるため、権力者は官僚に特権を約束する。官僚が特権意識をもって国民に接してくるのは当然の流れである。
 
しかし、戦後、主権が天皇から国民に移った。したがって、官僚は国民にサービスする公僕である。官僚組織も昔のままではいけない。
 
問題は、国民は利害の異なる個人からなり、多様な意見がでてくる。選挙で選ばれた議員が、本当に国民の声を代弁しているだろうかの問題もある。主権者の意思が曖昧であるから、官僚組織も、昔のように効率至上では やっていけない。
 
このような実情を考えるとき、官僚組織も民主的であるべきだと私は思う。官僚はトップからの命令で一方的に動くのではなく、組織という形をとっても、組織内で上下双方向の対話があるべきだ。それで現場の声がトップに届く。
 
また、キャリアとノンキャリアを分ける公務員試験は廃止すべきだ。公務員はみんな同等だ。キャリアとノンキャリアを分けると、特権意識に酔う公務員がでてくる。
 
菅義偉が、ある官僚が自分に意見したからといって、その官僚を移動してはいけない。まず対話すべきだ。まして、「飛ばしてやった」とまわり自慢するようでは総理大臣にふさわしくない。
 
また、安倍晋三が、官僚に忖度させたことは、自分の政治責任を避けて、責任を官僚に押し付けることになり、腐敗の温床になる。
 
「官僚は中立・専門性を隠れみのに特権を行使した権力だ」という戦後初期の批判の奇異な点は「中立性」である。「中立」とは何をいうのだろうか。「中立」とは、争う党派があって、そこから中立だという意味だと思う。批判はあくまで、官僚は「国民へのサービス機関」として機能しているか否かで批判すべきである。
 
もちろん、官僚が特権的生活を送っていれば、批判の対象となってしかるべきだ。
 
「官僚は政治に中立であるべき」という批判も「官僚に政権への『従属』を求める」という主張も無意味で、「官僚が国民へのサービス機関として機能しているか」に立脚して議論されなければならない。
 
島田博子はつぎのようにいう。
 
「最近の米国の研究では、多数決原理だけでは実現できない公益がある、との指摘があります。」
 
これは、「国会が国民を代表していない」という現実を踏まえての発言であろう。また、国会が国民を代表していても、国民自体が判断を誤ることもある。
 
したがって、官僚組織の組織のなかでも、多様な意見があり、対等な立場での充分な議論がおこなわれるほうが、安全であると私は思う。行政の効率を損なっても、上下双方向の対話が行われて組織が動くほうが良いと思う。すなわち、官僚組織を徹底的に民主化して、「国民へのサービス機関」にすることがだいじだと思う。
 
メディアの官僚批判もこの視点でなされるべきである。
 
政権への官僚の従属を強めても、菅義偉の自己のメンツだけで行政が右往左往して、腐敗が入り込む余地ができるだけである。