きょうの朝日新聞に、内田麻理香が『「正しく恐れる」が生む排除』という小論を寄稿していた。彼女によれば、1935年に寺田虎彦が「正しく恐れる」ことは むずかしいと随筆『小爆発二件』のなかで言ったという。
ネズミも人間も危険な状況に出会うと恐怖を感じる。この恐怖は記憶され、その後も危険を予知して、不安を感じる。地球物理学者の寺田虎彦は、この人間の予知した危険が、正しい予知であるか、すなわち、現実に起きうるかの科学的判断は むずかしい、と言ったのである。科学的に予測することが むずかしい危険は世の中にいっぱいある。
内田の主張は、そのことを前提として、不安におびえる人々を排除してはいけないということである。同感である。
2011年3月11日の東日本大震災は、福島第1原発のメルトダウンを引き起こした。三重水素を含んだ汚染水が、いまだに、メルトダウンでできたデブリから出てきている。ブスブスと核分裂連鎖反応が起きて中性子が飛び出ている。
このことについて不安を感じる人々を「放射脳」と呼んでののしる人がネットにいたとは知らなかった。
精神医学では、「危険・不安」で苦しみ、精神科を訪れる人を「不安症」と呼び、治療の対象とする。しかし、危険・不安は正しい危険の予知かもしれない。毎年、ストーカーによる身の危険を警察に訴え、警察は危険を共有せず、殺される人が出てくる。また、いじめで自殺をする子供もいる。また、いじめが本当の殺人に行くケースもある。
新型コロナ感染の問題も、感染が人から人へとうつることは確実だが、人と人の接触はどこまで許されるか曖昧である。良く分からないから確率で扱うしかない対象である。といっても、その確率さえ推定困難である。
菅義偉が施政方針演説で、「安心」と「希望」を目標においた。これは、まったく精神論である。「正しく恐れる」は科学としては難しいが、その努力はすべきで、それなしに、「安心」を口にすべきでない。「安心」だと思って危険な行為をされても、行政の長として困るはずだ。
おとといだったと思うが、新型コロナ感染に感染した女優が思い当たる感染経路がないとテレビで言っていた。しかし、発症の前に、チェイン店で子どもとともに食事をした、スーパーで買い物をした、と言っていた。人と人の接触による感染の確率は、感染を持った人に何人会うかに依存する。町の感染率が上がった現在、昼にチェイン店で食事しても、スーパーで買い物をしても感染するリスクは十分にあり、テーブルがアルコール消毒されているとか、店員がマスクをしているかとか、店頭にアルコール消毒が置かれているか、とは関係ない。市中感染率が上がったから、緊急事態宣言をしたわけである。
行政が推定市中感染率を発表して、「安心」ではなく、「不安」をみんなが共有したほうが良いのではないか。行政は本当のことを言うのを避けているように思える。
また、日常の人と人との接触する行動をリストアップして、危険度を点数化し、危険度の総和が一定値を超える人にPCR検査を勧める診断表をメディアやネットに発表した方がよいのではないか。
現在は、ありふれた日常の行為、外食、買い物までが、リスクあるようになっている。この時点で、感染症法や特別措置を改正して、より私権を制約し厳罰化しても不安を感じる人と不安を感じない人の分断を深め、隠れ感染者を増やすだけだと思う。
きょうも、マスクをしていない人や鼻を出している人に、何人も、町のとおりや電車の中で会った。
「正しく恐れる」ことはむずかしいが、いまは「安心」より「不安」を共有した方がよいときだと思う。
[関連ブログ]