朝日新聞の記事で、台湾のIT相オードリー・タンはトランス・ジェンダーだと書いていた。私はその意味がわからず、ウィキペディアを見ると、「生まれた時に割り当てられた性別が自身の性同一性と異なる人」のことだそうである。よくわからない説明である。
さらに、オードリーは自分の性別に「無」をつけていると記事にあるから、よけい、わからない。
世の中には、「男」として生まれてきて損したとか、「女」として生まれてきて損したとか、思う人がいる。この場合、「損した」と思いは、「男」であること、「女」であることに伴う、社会的慣習への不満だと思う。
オードリーが「無」と書くのは、世の中の「男らしさ」「女らしさ」への意義申し立てではないか。どちらでもない、そのままの自分を見て欲しい、という思いがあるのではないか。
私が小学校に入学したとき、先生がいないと、教室の男の子たちが二手に分かれて、どちらの集団が強いかと、すぐ喧嘩を始めるのにびっくりした。私はそれに加わることができず、ただ見つめるだけであった。それで、男の子の私の 低学年のときの友だちは、女の子ばかりであった。
私は乱暴なのが嫌いである。私は暴力が嫌いである。
しかし、いま考えてみると、その喧嘩に加わらない男の子たちが、私以外にもいたはずである。また、男の子たちは生物学的に喧嘩が好きなのか、それとも、生まれつきの特性ではなく、親や社会の価値観が反映しているだけなのか、という疑問をもつ。
外猫を見ていると、ライオンや豹と同じく、母猫が家族を率いていて、オス猫は生まれて1年ぐらいで、母猫に群れから追い出されている。
人間の場合、猫より知性があるのだから、「男らしさ」「女らしさ」から自由になって、自分の考えで行動すれば良いと思う。集団の価値観から自由になるのが、個人主義である。
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