台湾のIT相オードリー・タンの物語は、朝日新聞紙上で、火、水、木の3回の連載で、きょう終了した。学校に行けなかったオードリーの成功の物語である。しかし、彼女のように成功しなくても、学校に行けない子どもたちを親たちは守るべきだと思う。
オードリーの両親は、学校が怖いと言って行けないオードリーの気持ちを尊重し、彼女に教育を授けたのである。そればかりか、母親は「志を同じくする10家族」と、一般の学校に行けない子どもたち向けの学校、「毛毛虫学苑」(ケムシの学園)を作ったのである。その学校は いま 100人の児童が通っているという。父親も母親を助けたのだと思う。
ところで、みんながオードリーの両親のように行動力があるわけでもなく、財政的に余裕があるわけでもない。したがって、公立の学校が、怖くて通えない子どもがでないようにできれば、それが一番いい。学校が怖いというのは、いじめっ子がいる場合もあるだろうし、教師自身がいじめる場合もあるだろう。教師の場合は、子どもと対等の立場ではないから、いじめは虐待である。
虐待を行うのは、教師の心に余裕がない、また、教師同士に平等なつながりがないからである。教師が心の余裕をなくすのは、文部科学省の指示通りに、児童に知識を詰め込み、しかも、従順な国民に仕上げようとし、そのうえ、レポートを上に提出するという無理をするからである。良い教師は、もっと ちゃらんぽんとして、無理をせず、政府や校長のいうことを聞かず、レポートを書かず、子どもたちを観察し、子どもたちの思いを尊重し、同僚と発見を分けあい、叱ることもなく、子どもの成長を助ける教師である。
菅義偉や安倍晋三をみても分かるように、自民党議員は、頭の中がスカスカだが、ゴマすって、徒党を組むために、いつも誰かと会食している、やからである。政府のいうとおりに子どもたちを指導してはいけない。
日本の親たちにも問題がある。学歴や学校の勉強にこだわりすぎてある。
この前、テレビでニコラス・ケイジのアメリカ映画『月の輝く夜に』を見ていたら、老年の主婦が夫にすっぽかされ、レストランに、たまたま いた大学教授と食事をして、月の輝く夜道を、大学教授に家まで送られる。大学教授は、彼女の大きな家にびっくりし、夫の職業は何かと聞くと、「配管工(plumber)」と彼女が答える。大学教授は一間のアパートに住んでいるのだ。
生活の豊かさは教育で得られるというのは、学校経営者の嘘である。学問が好きだから大学に行き勉強するのであって、生活の豊かさを求めるなら、学校を行く必要はない。オードリーは、中学に通うのもやめて、IT業界で働き、19歳で起業した。
私の従姉妹(いとこ)は、ラーメン屋の配達のイケメンと結婚し、それまでの店員をやめ、カーペット掃除で成功し、自分たちの家をもった。私の小学校からの友だちは、家が貧しくて、高校に進学させてもらえず、しばらく ぐれていたが、ペンキ塗りで成功して、家を2軒もち、大型の秋田犬を飼っている。
もっとも、これは成功物語であって、誰にでも起きることではない。しかし、無理をして学校に行ったからといって、豊かになれるわけではない。
私は退職してから、40年ぶりに県人寮の友達にあった。彼は、大企業の化学メーカーに務めて会社のための談合で実刑判決をうけた。刑務所を出た後、そのご褒美にとても小さな子会社の社長になった。しかし、その毎日は、自らポリバケツやちり取りを売って歩くことで、親会社の天下りしてくる退職者のための給料を稼いでいるという。そいつの持論では、人間が必要なものの多くは今も昔も変わらない。誰にでも作れるものを作って、それを売って歩くことも社会に必要な仕事なのだ、と私に言った。なるほどと思った。それも社会の1つの真実である。
多くの人にとって、華やかな成功とは おとぎ話で、みんなと同じく、平凡に生きて行ければ、それはそれで とても幸せなのだ。格好いい生き方を求めなくても、友がいて、生きていけるだけでいいのだ。
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