いま、中山俊宏の『アメリカ知識人の共産党』(勁草書房)を読んでいる。まじめな本である。テクストのすみずみから、去年亡くなった中山の真摯な姿が目に浮かぶ。惜しい人を私たちは失った。
この本は、前書き(「はじめに」)によれば、彼の死後に、2001年の青山学院大学大学院に提出した博士論文を書籍化したものだという。中山は博士論文を出版しようと思い、書き直しを始めた時点で、突然の死を迎えた。残った同僚が、中止された書き直しでなく、彼の博士論文を誤字修正だけで、そのまま出版したという。
彼の博士論文の主題は、アメリカの共産党の歴史ではなく、アメリカの知識人の思いの中の共産党である。アメリカの共産党は残念ながら現実には消滅している。アメリカの知識人が消滅した共産党に影響を受けて、アメリカの多様な思想をはぐくんできた。それを分析している。
中山が博士論文を日本語で書いたのか、英語で書いたのか、気になる。理系の博士論文は英語で書くのが普通である。それは、論文が世界中で読まれるべきと想定してきたからである。彼はどうも日本語で書いたようである。日本人に読まれることを期待してだと思う。
彼は英語に堪能であり、英語の1次資料を読んで、博士論文を書き上げたのだから、日本人に読んで欲しいとの思い以外に、日本語で博士論文を書く理由はない。
しかし、彼は、アメリカの知識人の心の中を語るとき、日本語の曖昧性に困惑したのではないかと思う。日本語の曖昧性をヨイショする日本人もいるが、アメリカの理念の分析を伝えるとき、言葉に困ったのではないか、と思う。
彼は、単語レベルでは、日本語の単語(漢字表記)に英単語(カタカナ表記)のルビをふっている。アメリカの思想や政治を語るとき、日本語にない概念がいくつも出てくる。近い語があっても、ニュアンスが大きく違う場合が多い。
例えば、彼は人民にピープルとルビをふる。また、1次資料からの引用が、日本語になっている。
そもそも、彼の博士論文は、縦書きだったのか、横書きだったのか。私が、博士論文の主査であれば、縦書きの論文は受け付けない。縦書きの論文は、源氏物語のような日本の古典を題材にしたものに限るべきだ。
付録や文献目録を見ると、彼の博士論文は横書きだったと思う。英単語はカタカナでなく英語のspellで、引用文は原文通りの英語であったのだと思う。
彼の死後、博士論文を商業的に流通させるために、英語の部分を日本語に置き換えたのであれば、本書の前書きにそれをことわるべきだと思う。
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