2016/10/10(月)のブログから再録
ハンナ・アーレントの『全体主義の起原』(みすず書房)には納得がいかない所が多々ある。どうも、大衆が嫌いという生理的体質が、彼女の論理に影響を与えているのではないか、と思う。
これに対し、同じ著者の『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』(みすず書房)のほうが、本の字が小さいのにも関わらず、読みやすい。ユダヤ人を強制収容所に輸送した責任者アイヒマンの裁判を通して、ユダヤ人虐殺の本質を、ノンフィクション作家のように淡々と書きしるしたもので、自分の思想の押し売りの部分が少ない。
彼女が描き出したアイヒマンは、やる気が続かなく、頭も悪く、ユーモアもなく、どもることもある、嘘つきの社会的落伍者である。同じく、ヒトラーは、高等教育も受けていず、兵卒長が唯一の職歴で、観客の前で大言壮語できることだけが取り柄の社会的落伍者であった。しかし、ヒトラーが落伍者から総統に成り上がったがゆえに、アイヒマンは、ヒトラーを自分の英雄として尊敬し、ヒトラーから命令を受けることを人生の至上の喜びとする。そのアイヒマンが、ユダヤ人に興味をもちシオニストの著作を読み、ユダヤ人共同体の幹部とも接触していたために、ナチの組織の中で大出世をし、貧しいユダヤ人を、そのユダヤ人幹部の協力を得て、強制収容所に大量輸送する使命を得る。
『全体主義の起原』では、モッブたち(教養がなく下層の乱暴者)とエリートたちが協力して、強圧的全体主義体制を作ったとしている。
『イェルサレムのアイヒマン』では、大衆の中の頭のからっぽの個人に焦点を与える。何のとりえもない人間が、職をえるため、雪崩を打ってナチ党員になり、出世するため、戦争やユダヤ人虐殺に積極的にのめりこんでいくさまを、アイヒマンを通して描き出している。
しかし、ハンナ・アーレントが大衆運動を毛嫌いするのは偏見ではないかと思う。民主主義は、古代ギリシア語ではδημοκρατία(デーモクラティア)で、群衆や下層民を意味するδῆμος(デーモス)を語源とする。したがって、彼女が毛嫌いする大衆が、政治の主体になることが、民主主義である。
ならば、悪意のある者たちに、大衆運動が利用されないよう、日々、努力していくことが大事である。私も大衆(下層民)の一人に過ぎないから、プラトンの「哲人政治」は生理的にまっぴら御免である。
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