1週間近く前、宇野重規が朝日新聞の書評欄に田中拓道の『リベラルとは何か』(中公新書)の書評を書いていた。彼はつぎのように褒めていた。
〈本書の最大のメリットは、この言葉を明確に絞り込んで使っている点である。〉
〈リベラルを切り捨てる前に、ぜひこの本を読んで欲しい。〉
宇野重規は、菅義偉によって日本学術会議会員の任命を拒否された6人のひとりである。保守言論人のひとりでもある。菅がなぜ彼を嫌ったのか、任命拒否の理由を明らかにしていないので、わからない。推測するに、加藤陽子と同じく、東大卒で自由に発言するからだろう。左翼でないのに、政権に従順でないからだろう。
宇野は3年前に朝日新聞デジタルの論座に『あいまいな日本のリベラル』という小論を寄稿している。
「リベラル」とい言葉は、欧米でも、その意味が変遷してきた。とくに、日本で使われるのが1980年代以降であるそうだ。
たしかに、「自由民権運動」の「自由主義」は、「自由民主党」のおかげで、日本では地に落ちた形で使われるようになった。「在日特権を許さない市民の会(在特会)」のように、在日外国人を排斥する「自由」にさえ使われている。また、「新しい教科書をつくる会」の公民の中学教科書では、「自由主義国」を「共産主義国」を敵視する資本主義国の意味で使っている。
私が40年以上前にカナダにいたとき、Progressive Conservative Party(PCP現Conservative Party)とLibral Party(LP)とNational Democratic Party(NDP)の3つの政党があった。学生の人気はNDPにあったが、いまだに少数野党である。いまはLPが政権党である。ということは、LPは左翼政党ではないのだろう。
私は、いまだに、「リベラル」と「自由主義」の区別がつかない。そんな私をおいてきぼりにして、政治家は言葉を風化させていく。
宇野は、3年前の小論で、18世紀までリベラルは「寛容な」という形容詞であったという。19世紀になって、「自らが正当性を認めない権力には決して服従しない」という意味に使われ、「リベラリズム(liberalism)」という政治用語を生み出したという。
〈換言すれば、「リベラル」とは本来、「個人の自由・多様性・寛容」を指し示す立場である、と言っていいだろう。〉
ところで、「自由主義」は「リベラリズム」の日本語訳である。同一のはずである。
19世紀の思想家ジョン・スチュアート・ミルは、「自由論(On liberty)」(光文社古典新訳文庫)で、言論や思想の自由を主張している。そして、「個人の自由を最大限に尊重するために、政府の権力を限定する」を主張している。
宇野は次のように指摘する。
〈これに対し、20世紀になると、「リベラル」はむしろ「大きな政府」を支持する立場を意味するようになる。社会において、大企業などの組織の前に個人や労働者の立場は弱くなるばかりである。そうした個人の自由を実現するためには、政府がむしろ積極的な役割を果たすべきである。このような思いから、労働者の権利保護や社会保障を含め、福祉国家の役割を重視する立場を「リベラリズム」というようになった。〉
今回の書評で、宇野は『「自由と再分配」の危機と可能性』をタイトルにした。この「再分配」は、20世紀の「労働者の権利保護や社会保障を含め、福祉国家の役割」の重視に対応しているのだろう。宇野は、この20世紀のリベラリズムを肯定する立場であるようだ。
私は、「再分配」をリベラリズムの一環として捉えるのが適切なのかに、保留する。私は、「再分配」を「平等」という視点でこれまで捉えてきた。「自由と平等」を対(つい)にしてはじめて、「他人から何かを奪い取る自由」に抑えが効く。
「再分配」の概念は慎重に検討しないと、「ものの共有」すなわち「共産主義」を抑え込むための道具として使われ、怪物となる危険性を秘めた「自由主義」を制御できないのでは、と危惧する。少なくとも、「再分配」は「施し」や「労働運動対策」や「ばらまき」であってはならない。
[補足]
早速、田中拓道の『リベラルとは何か』(中公新書)の貸し出しを予約した。手に入るのは、1カ月から2カ月後になるだろう。
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