安倍晋三が殺害されたのは思いがけないことのようで、起こりべくして起きたようにも思える。
暴力こそが争いを解決する唯一の道だと平然として主張する人が、最近、日本に増えている。自民党がそうであり、日本維新の会がそうであり、国民民主党がそうである。自民党副総裁の麻生太郎は、弱いからいじめられるのだ、と4日前に参院選応援演説で言ったばかりである。敵基地攻撃能力とか軍事力をもって外交するという考えは、まさに、暴力こそが正義であるとするものである。
その暴力肯定派の棟梁である安倍晋三が、手作りの銃をもった元海上自衛隊員に、あっけなく殺されたのである。自分が作った暴力的風潮の被害者になったのである。
安倍を殺した犯人は、政治信条からではなく、特定の宗教団体に恨みがあり、安倍がその宗教団体に関係しているからだ、と警察に動機を語っているという。宗教団体の名前は警察が明かしていない。妄想から殺人にいたった可能性が高い。これから精神鑑定も必要になるだろう。
私は、安倍晋三をしぶとい悪人だと思っていたから、こんなに簡単に死ぬとは思っていなかった。その意味では思いがけないことだった。いっぽうで、「暴力こそ正義」という考えが広がれば、殺人は起きうることである。
数年前に安倍の『新しい国へ 美しい国へ 完全版』 (文春新書)を読んで、政治家になった動機が「祖父をバカにする革新をぶっ飛ばす」しかないことを知り、ドン引きしてしまった。
日本は病気になった人や死んだ人には、その人の悪行をとがめず、理由もなく持ち上げる。しかし、それは間違っていると私は思う。私たちは、遺族を思いやっているかのようにふるまう葬儀屋でないのだ。死んだからと言って、公人をほめそやすべきでない。安倍晋三は、首相をやめたといえ、自民党最大派閥の領袖であり、日本の軍備増強や憲法改正の先頭に立ってきた。彼は、死しても批判されるに値する公人である。
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