私は60歳を過ぎて はじめて、「求道者」として、ある教会に通った。その教会を選んだ理由は、電車からみると、とても みすぼらしく見えたからと、牧師がネットにのせていた聖書の一節、『マタイ福音書』11章28節の「疲れたもの、重荷を負うものは、だれでも わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」が気に入ったからである。
私の息子が高校で登校拒否になって、つぎに、ひきこもって、さらに、家庭内暴力を振るようになって、この状況を脱するために、キリスト教になんらかのヒントがあるのでは、と思ったからである。牧師とも対面で幾度も話し合った。
その教会が、キリスト教改革派の長老派、つまり、カルヴァン派の教会であったと気づいたのは 2,3年してからである。したがって、Max Weberが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波書店、1988)で述べるカルヴァン派のドグマをそのまま信じることが私にはできない。
7年前に、実家に戻って、高校の同窓会に出席し、ガス自殺をした同級生の女の子が小さいときから通った教会が「キリスト教改革派の長老派」であると知った。自死そのものを知ったのは、もっと前の、私が40代のときである。
その女の子とは大学も大学院も専攻もいっしょだった。大学院にはいったとき、私のことを「太陽の子のようだ」と言ってくれた。いま、考えると愛の告白だったと思う。その女の子はときどき神の声が聞こえると言った。父親は大学教授で厳しい人だったとも言った。7年前に、彼女の実家と教会のある場所は、引揚者が住む地域だと知った。
私の通った「キリスト教改革派の長老派」教会では、毎日曜日の礼拝で、「十戒」、「神への祈り」とともに「罪の告白」を唱和する。私は、この「罪の告白」に疑問をもち、聖書を丁寧に読むようになった。日本語訳に疑問をもった節は、ギリシア語、ヘブライ語で読むようにした。
罪の意識は、強い精神がなければ、持たないほうが良い。
結局わかったことは、キリスト教は 時とともに社会とともに人とともに 変化しつつあるということだ。Max Weberの言うカルヴァン派のドグマも、彼の母から引き継ぎ、彼の父の権威主義と和解させた、彼の信仰である。それによって、プロテスタントの倫理が資本主義の精神と彼が言っても、みんなに迷惑なだけである。
Max Weberが心を病んでいたという、『マックス・ウェーバー』(中公新書)での野口雅弘の指摘は重要である。心を病んでいたから自分自身のための信仰を必要としたのである。
エーリック・フロムは『自由からの闘争』(東京創元社)で、Weberが称賛するカルヴァン派のドグマ「予定説」を、ナチスの台頭の基盤を形づくったと非難する。
Weberは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第2章第1節の「世俗内的禁欲の宗教的諸基盤」につぎの注をつけている。原書の122番目の注である。
〈(2)フンデスハーゲンによって代表されている見解によれば、予定説は神学者の抱いた教説であって、民衆(Volk)が信奉した教えではなかった、とされている。もし「民衆」»Volk«という概念を無教養な下層の大衆(Masse)の意に解するならば、これは正当だろう。しかし、そうした場合にもなお、その正しさはきわめて限られたものにすぎない。〉(大塚久雄訳)
大塚は注をテキストの間に埋め込み、番号を付け直している。(2)はその番号である。
Weberは、「無教養な下層の大衆(Masse)」という感じ方を父親から引き継いで、母のカルヴァン派の教えを解釈した。彼のカルヴァン派ドグマが知識人の解釈なら、フロムの批判は正当だと思う。
私の通った教会の牧師は、第2次世界大戦でのカルヴァン派の誤りは、当時の政府の要請、キリスト教の統合に応じたことと私に答えた。
私自身は、牧師を責めるつもりがない。日本のカルヴァン派が昭和の日本に影響を与えるほどの勢力はなかった。単に、カルヴァン派から命をかけて日中戦争や太平洋戦争に反対するものが出てこなかったということが残念なだけである。
野口雅弘は、『マックス・ウェーバー』(中公新書)で、もう1つ、大塚久雄訳の誤りを指摘している。大塚は “Beruf”を「天職」と訳している。Weberが“Beruf”に「使命(Aufgabe)」の意味があると確かに言っているが、それを「天職」と訳してしまったら、Weberの議論が意味をなさない。野口は、「仕事」と訳し直しているが、それが自然な選択だと思う。彼の著の第3章の扉に、大塚訳の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の第2章第2節の一部を引用しているが、大塚の「天職人」をすべて「仕事人間」と置き換えている。
羽入辰郎は、『マックス・ヴェーバーの犯罪』(ミネルヴァ書房)で、“Beruf”の問題で、大塚を飛び越し、Max Weberそのものを批判している。羽入辰郎の言う通りだと思うが、Weberが心を病んでいたのであり、彼を「知の巨人」とたたえる日本人に問題がある。
羽入の指摘は、聖書の『箴言』22章29節のヘブライ語 “מלאכת”をWeberは“Beruf”と訳したことである。Weberは、ここに、〈ルッター訳では「Geschäft」、旧英訳聖書では「business」である〉という注をつけた。これは、Weberの心理にそって考えると、ルター訳を“Beruf”と思いこみ、それに霊感を受け、心の病からの回復期に論文を書き、あとで、誤りに気づいたので、改訂にあたって、注をつけたと思われる。論文の構成からいって、“Beruf”を“Geschäft”に変えると、すべてが壊れるのである。
私の教会の牧師に、「どうして牧師になったのか」を問うたとき、「召命」があったからと答えた。これが “Aufgabe”である。確かに、カルヴァン派にはそういう感覚があるのだろう。もちろん、キリスト教の変質のなかで、でてきた感覚である。別の機会に、『箴言』22章29節について論じたい。日本語聖書でヘブライ語 “מלאכת”を「技(わざ)」と訳しているのは不適切である。野口の「仕事」がふさわしい。
さてさて、もう一つの『マックス・ヴェーバー』を書いた今野元は、どういうWeberを評するのか楽しみである。
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