横浜市では、2011年から一律に市立中学校で、育鵬社の歴史と公民の教科書を使ってきた。私は、その内容に違和感あるいは異議を抱いていたので、昨年8月、市教育委員会が2021年度から使う教科書として、歴史は帝国書院版、公民は東京書籍版を選んだことを、単純に喜んだ。
今月、東京書籍の公民の教科書をNPOが購入したので、早速使ってみたが、問題はそんなに単純ではないと思った。
私がNPOで担当しているのは、知的か精神的に何らかの問題をもっていて、社会に参加できない若者たちである。公民の教科書が、社会に出ていくのを助けるのに役立てば、と思ったのである。
今回、選んだのは、「自由権」である。東京書籍の公民教科書の「自由権」の項を声を出して読んでもらい、何らかの対話を行いたいと思ったのである。
X君が読み終わったので、「自由とはなんだと思う」と尋ねたら、即座に「自由気ままにふるまうこと」と答えられ、「早くパソコンで動画を見たい」と言われ、言葉に窮した。X君の問題は、読むことはできるが、その趣旨がつかめず、いつもうわの空で、すきあれば、自分のしたいことだけをしようとする二十歳過ぎの子どもである。
しかし、東京書籍にも問題がある。「自由権」の説明はつぎで始まる。
《私たちが個人として尊重され、人間らしく生きるためには、自由に物事を考え、行動できることが重要です。これを保障しているのが自由権です。》
これは、普通の中学生でも理解できる内容とは思えない。
いっぽう、育鵬社の教科書は、「自由権」をつぎのように説明する。
《独裁者による一方的な支配や社会的な抑圧からのがれて、自由に考え自由に行動することを求めるのは、人間としての切実な願いです。……。日本国憲法はつぎのよう自由権を手厚く保障してしています。》
育鵬社の言葉が一見難しいように見えても、教師が内容を説明しやすいのは、やはり育鵬社の教科書だろう。
教師は育鵬社の記述をつぎのように説明できる。
「昔から、世の中は、支配するものと支配されるものに分かれたり、抑圧するものと抑圧されるものとに分かれたりする。支配するもの、抑圧するものは、自由気ままにふるまうが、支配されるもの、抑圧されるものには、なんの自由もない。こんなことでは、不公平だから、不公平をなくすために、日本の憲法は、みんなに「自由権」があると、言っているだよ。」
いっぽう、東京書籍の「自由権」を説明しようとすると、「個人として尊重」「人間らしく生きる」を理解してもらう必要がある。しかも、それらのために「自由に物事を考え、行動できることが重要」という理屈が、説明しがたい。
「個人としての尊重」は「人間ひとりひとりの思い、例えば何が好きだとかは、それぞれ違うが、違っていいのだよ」と説明できる。
「人間らしく生きる」となると、道徳的なことを言うのか、経済的なことをいうのか迷ってしまう。道徳的となると、「人間とはどう生きるべきか」から説明する必要がある。他人に優しいとか、他人の悩みを共感するとか、自分だけ いい思いをしてはいけないとか、いう話しになる。
ここは、「自由に物事を考え、行動できること」に結びつくためには、どうも、「人間らしく生きる」は「ゆたかに生きる」ことを意味するようだ。これだと、あとに出てくる、憲法が「経済活動の自由を保障」という文と整合性がとれる。
しかし、そうだとすると、「自由権」とは金持ちだけのためのものになってしまう。
また、「精神の自由」の説明は、育鵬社の説明のほうが単刀直入で子どもにわかりやすい。
《特に重要なのは表現の自由です。表現方法には言論、出版、音楽、インターネット、デモ行進などが含まれます。》
不思議なことに、東京書籍の「精神の自由」には、これに対応する記述がない。表現の自由とは、「インターネット」や「デモ行進」などで、みんなが「自分の意志」を表示できることなのだ。
「精神の自由」とは「精神」という言葉が新鮮で輝いていたときに意味があったので、現在では、「こころの自由」と誤解される。「こころの自由」なら、奴隷でも、強制収容所にいても、本人の努力で持てる。そうでなく、憲法がのべているのは、自分の意志をもち、その意志を表現することの肯定である、と思う。
東京書籍の記述は、何か自己規制をしていて、白々しいのである。
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