けさ、3月21日の朝7時のフジテレビのニュース番組にびっくりしたのだが、新型コロナ対策専門家会議がイベントを禁止しなかったことを、国民に判断を丸投げしていると非難していた。
近代社会では、人は「自由」である。何を行い、何を行わないかは、人が自分で判断するのだ。他人の自由を侵害する、他人の生命をそこなうことには、社会の合意として、法でもって、禁じている。
自分で判断するのではなく、政府に、権威あるものに、命令されたい、というのは、エーリック・フロムのいう「自由の放棄」ではないか。フジテレビのニュース番組関係者はなさけない。
私は誰かに命令されたくない。「自由」を求める。
3月19日の専門家会議の記者会見では、新型コロナの爆発的感染拡大がいつ起きてもおかしくない状態であると言っていた。個人が判断するにそれで十分でないか。あと、何を知りたいのか。
専門会議は疫学チームである。疫学の常識は、「免疫や有効な治療法がなければ、国民の60から70%が感染するまで、流行が収まらない」である。新型コロナが新型である所以(ゆえん)は、みんなが免疫をもっていないことをいう。だから、疫学のできることは、感染者を隔離して感染の広がるスピードを遅らせ、有効な治療法が開発されるのを待つか、そうでなければ、重症者出さずに国民の大半を感染させ、集団免疫の状態に持ち込むしかない。
有効な治療法を開発することも、重症者をださないことも、疫学チームの仕事ではない。疫学ではできないことなのだ。
疫学チームの第1の仕事は、集団感染(クラスター)の早期発見・感染者隔離である。あたりまえのことだが、集団の規模が多ければ、参加者を特定できなければ、対応できない。疫学は、初期消火できなければ無力なのだ。
大規模イベントや人ごみが、クラスター対策班にとっては、困る存在であるのは、あたりまえである。だから、大規模イベントは「禁止」すべきか、専門家会議で議論になったことは驚くべきことであり、副座長の尾身茂の言うとおり、肯定的に評価すべきである。
私は人が集まる場所にわざわざ行かない。私に投票権があれば、東京オリンピックは開催しないに1票をいれる。
3月19日の専門家会議の記者会見で、尾身は一度も「自粛」とはいわず、市民の「行動変容」と言っていたと記憶している。私は、尾身が「行動の選択の自由」を意識していたのだと思う。感染の危険リスクについて説明したうえで、みずから危険を冒すか、避けるかは自由なのだ。
ただ、それ以前に、ひとに感染をうつしてまわらないよう、専門家会議が若者にお願いしているから、あとは個人の行動の選択である。
「自粛」とは「自己規制」「節制」の言い換えである。プラトンは『国家(Πολιτεία、ポリテイア)』の3巻でつぎのように言う。
「節制(σωφροσύνη)とは、大多数の一般の者にとって、支配者たちへの従順であり、そして、みずからは飲食や愛欲などの快楽に対する支配者である、ということ」
B. Jowettはこの“σωφροσύνη”を“self-control”と訳している。
「節制」は「享楽」の反対語である。そして、同時に、「自由」を否定する語にもなりうる。
尾身は「自粛」とは言いたくなかったので、「行動の変容」という言葉を選択したのであろう。
「行動の変容」とは、人の行動に漫然とした慣習的なものがあり、危機に面しては、違った選択をしたっていいものがあり、自分でそれを選択すればよい。
命令されて動く国民だと、命令がやめば、反動がおきる。きょう、遊園地に人ごみが殺到したとテレビで放映していた。
きょうの夜のニュースで、小学校の卒業式の練習ができず、ぶっつけ本番で卒業式を行ったと教師がこぼしていた。卒業式を練習するなんて、バカか。卒業式は見世物じゃない。卒業式、入学式なんて、本来、不要なものである。
結婚していたら、ジムや居酒屋に行く必要だってない。花でも買って帰って、ふたりでセックスに励めばよい。
現在の民主主義を壊すのは専門家集団だとよく言われる。今回、専門家会議のメンバーを見ると、非常に地味な経歴である。疫学は地味なんだ。地味な専門家は、国家によってようやく生きながらえている。確かに政府を恐れてはいるが、しかし、今回のメンバーは政府の太鼓たたきになっていない。政府は専門家の知識がない。専門家が政府の指示に従順であれば、もはや専門家の機能を果たせない。
専門家と官僚は区別しないといけない。官僚は組織の中で泳ぐことを知っているが、社会にとって有用な知識の専門家ではない。
もちろん、テレビにでてくる専門家には政府の太鼓たたきもいる。メディアも自前のまともな専門家を抱えたらよいのではないか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます