きょう、7月20日の朝日新聞の読書面はひさしぶりに硬質な書評であふれた。ここでは、そのなかで、立岩真也の小論と石川健治の書評を取り上げる。
立岩真也は《ひもとく》の欄で『やまゆり園事件から3年 「生きる価値」の大切さ問う』というタイトルで、『妄信』(朝日新聞出版)と『開けられたパンドラの箱』(創出版)とが「(腰が)引けている」と批判し、『生きている!殺すな』(山吹書店)を薦める。
立岩の文章は私にはわかりにくい。
解釈するに、「(腰が)引けている」とは、「生きてよい人/死ぬべき人を分けるのはなぜか言ってみろと詰問」しなかったことをさしているのだ。やまゆり園事件の被告は「ある人たちを生かしていくと社会はやっていけない」と思っていると、立岩は推量する。もうひとつの立岩の疑念は、重い障害者には生きていて楽しいことはないのだ、と、これらの本の書き手が心の奥で思っているからではないか、のようだ。楽しくあろうが、なかろうが、人は生きていく権利があるのだ。
私は、「やまゆり園事件」を頭のおかしい被告の犯行と考えないことに賛成だし、他人が人の生死を決めていけない、と思うし、人の生は、楽しいことがなくても、生きていく価値がある、と思う。
石川健治の書評は、さらに、わかりにくい。彼の場合は教養が吹き出てコントロールがきかないからだ。もっと、書くスペースを彼にあげなければ、気の毒である。
石川は、中村稔の『高村光太郎の戦後』(青土社)を取り上る。高村は、智恵子抄で有名なように、智恵子との官能的愛を歌い上げた詩人である。が、真珠湾攻撃の一報を聞き、「天皇あやふし」「私の耳は祖先の声でみたされ」、「個としての存在」から「共同体精神の卓越した表現人」として、戦争を鼓舞する詩を書いたという。
92歳の中村は、「共同体精神」に自己の魂がへし折られた高村が、表現人としての戦争責任から逃げず、「民衆」に分け入ることで「自主自立」の精神を再建したことに焦点をあてて、高村の戦後7年の独居生活を書いている。
無責任2枚舌の岸信介や被害妄想のチャラチャラ安倍晋三とまったく違った「誠実さ」をここにみる。
『高村光太郎の戦後』(青土社)を、ぜひ、読んでみたくさせる石川の書評であった。
○ 智恵子
よろしく。