猫じじいのブログ

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津久井やまゆり園殺傷事件の最終弁論―失敗の裁判員裁判

2020-02-20 22:22:22 | 津久井やまゆり園殺傷事件

きのう、2月19日に、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で利用者19人を殺害し、職員を含む26人に重軽傷を負わせた件の裁判が、横浜地裁で結審した。

きょうの朝日新聞の神奈川面に、19日の最終弁論の要旨がのっていたが、弁護側のスタンスがよく分かる記事であった。

その最終弁論要旨をさらに圧縮すると、「検察側が根拠とする精神鑑定」に誤りがあり、「被告が当時、ブレーキが壊れ、変な方向にアクセルが入りっぱなしになった状態。自己を制御する能力は無かった。病的で異常な思考で実行した可能性がないと言い切れない。被告は精神病を患い心神喪失の状態にあったので、無罪を言い渡されるべきだ」となる。

私は「検察が根拠とする精神鑑定」に誤りがあるとするのは、その通りだと思う。しかし、精神鑑定に誤りがあるからといって、「無罪」になるわけではない。

私が誤りだというのは、反社会的パーソナリティ障害との診断のことで、アメリカの精神医学会の診断マニュアルDMS-5の「鑑別診断」の項に次のように書いてある。

「成人で反社会的行動が物質使用障害を合併している場合、反社会性パーソナリティ障害の特徴が小児期から成人後まで継続していないかぎり、反社会性パーソナリティ障害の診断はくだされない」。 
(ここで「物質使用」は “substance use”の訳で、覚醒剤、大麻、アルコール、精神科で処方する薬剤などのことをいう。)

私自身は、刑法第39条の適用を精神鑑定にたよること自体に反対である。反社会的行為は反社会的行為によって処罰すべきである。刑法第199条の「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する」にもとづいて裁くべきである。

刑法39条「1.心神喪失者の行為は、罰しない。2.心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する」は、明らかに錯乱している状況にある場合に限定すべきであり、その場合には錯乱しているものを放置した者の責任が問われなければならない。

弁護側は、公判をつうじて、錯乱している被告を放置した責任をだれにも告発していない。また、明らかに錯乱していたという裏付けがない。

弁護側は、弁護側の精神鑑定で「大麻精神病、大麻の長期常用による慢性精神病」としている。この弁護側鑑定にたいして、公判でどのような討議があったかが、メディアの情報では一切わからないが、「鑑定は合理性を欠き、信用性に疑問がある」という言葉を返したい。

「精神病」とは、統合失調症に類似した症状をもつことを普通はいう。しかし、被告には「障害者を安楽死させるべきだ」「自分で抹殺する」という信念のもとに、計画をねって犯行を実行している。いっぽう、「精神病」の状態では、脳の機能が低下しており、計画的犯行ができない。場当たり的な犯行になる。

弁護側は、「大麻精神病」の裏付けとして、「常識では理解できない」「死刑になる可能性も検討していない」「この思考は奇異」「きわめて軽率、無防備」を連発している。

ここで、ヒトの心を常識でシミュレーションできるという誤りを犯している。ヒトの心をシミュレーションして人を裁いては いけないのだ。
ヒトの心をかってにシミュレーションして、無罪だ、死刑だと、していけないのだ。

被告が「重度心障者」と心が相互に伝わらないと言っているのは、被告が相手の心をシミュレーションできないことを言っているのだ。被告と同じ過ちを犯していけない。

また、「大麻精神病」と言いながら、芸能人の薬物使用にたいしては厳しく、「やんちゃな」町の若者の大麻使用を見過ごす、メディアや社会に言及しなかった弁護側の態度は不誠実に思える。

また、復讐心をあおるメディアにたいする弁護側からの批判が弁護側から聞こえなかった。弁護側は「死刑制度」をどのように考えているのだろうか。

被害者学の諸沢栄道が朝日新聞記者に語った裁判批判は的をえている。

「裁判には法的責任を問う役割に加え、動機を解明して事件の再発を防ぐ責務があるという。だが、この公判では被告の成育歴を明かす両親の供述調書や、園での働きぶりを示す同僚の証言など、真相解明に欠かせない証拠がほとんど明らかにならなかった。」

弁護側がすべてを大麻のせいにするのは無理があり、事件の再発を防げない。また、被告を死刑にしても、事件の再発を防げない。


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