猫じじいのブログ

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精神鑑定は言いぱっなしではダメで討議すべき、やまゆり殺傷事件裁判

2020-02-12 21:47:44 | 津久井やまゆり園殺傷事件

相変わらず、メディアの津久井やまゆり殺傷事件の裁判報道がお粗末である。

2月7日の第12回公判では、東京都立松沢病院の大沢達哉医師が2018年に行なった精神鑑定を説明し、心神喪失か耗弱の状態でないと述べた。2月10日の第13回公判では、中山病院(千葉県市川市)の工藤行夫医師が、大麻の乱用で心神喪失か耗弱の状態だったと述べた。

大沢は検察側の精神科医であり、工藤は弁護側の精神科医であるから、結論が異なるのはあたりまえだ。

精神医学は、まだ、学問として未熟であり、専門家といえでも、客観的真理を述べることはできない。1900年前後に活躍した精神医学の大家、エミール・クレペリンは、精神科医が心の動きをシミュレーションできない言動をする人を、精神疾患者と定義した。現在もそれが変わっていないが、現代の精神医学哲学者レイチェル・クーパーは、自分の心の動きから他人の心の動きをシミュレーションするのを精神科医は もう やめるべきだと言う。

したがって、自分の心の動きから他人の心の動きを推量するという、現在の精神医学の限界を超えるために、大沢と工藤が直接討議したり、検察や裁判員や裁判官が工藤の論理的整合性をついたり、弁護側や裁判員や裁判官が大沢の論理的整合性をつくことが、必須である。

今回の裁判長がバカでないかぎり、大沢や工藤に対する質疑が法廷で行われたはずである。それを報道しないメディアはお粗末としか言いようがない。それとも、裁判長はバカなのか。

このなかで、2月11日の時事オピニオンに載った雨宮処凛の『植松聖被告の法廷に通って』は貴重な公判報告である。彼女によると、傍聴した2月6日の第11回公判で、次の事実を聞いて驚いたという。

《しかし、2月6日に傍聴した第11回公判で、冒頭のように被害者弁護士に「あなたは小学生の時、『障害者はいらない』という作文を書いてますね?」と問われた植松被告はそれを認めた。書いたのは低学年の頃だという。
 また、この日の裁判では、中学生の頃に一学年下の知的障害者の生徒が同級生の女の子を階段から突き落としたのを見て、その障害者の腹を殴ったと発言。これも初耳だった。》

弁護側の証人、精神科医の工藤は、第13回公判で、つぎのように言った。

《幼少期の被告は明るく人懐こい性格の一方で、中学時代に飲酒・喫煙をしたり、高校時代に部活動で部員を殴り停学になったりしたと指摘。大学では飲み会中心のサークルに入り、危険ドラッグも使うようになった。
問題行動はあるが反社会的な逸脱はない「やんちゃでお調子者」というのが、被告本来の性質だ。だが、2013年ごろから大麻を乱用し、「障害者を安楽死させるべきだ」などと述べて人が変わった状態になった》。

第11回公判で、子どもときから障害者への嫌悪感をもっていたとの証言と、「問題行動はあるが反社会的な逸脱はない」との工藤の判断とは、整合性があるのか。このことを、第13回公判で、だれかが、工藤に問わなかったのか、気になる。

さらに、「問題行動」と「反社会的逸脱」との境界は何かを問わないといけない。私が思うに、この区別は精神医学の問題ではなく、教育心理学、犯罪学心理学で行われる区別である。「反社会的逸脱」とは法を犯すことをいい、「問題行動」とは社会的コンセンサスを犯しているが、法を犯していないこと工藤はを言っているようである。

そうでなければ、「中学時代に飲酒・喫煙」、「高校時代に部活動で部員を殴り停学」、「大学では危険ドラッグ」さらに「入れ墨」した被告を「やんちゃでお調子者」とは言わないだろう。

また、「幼少期の被告は明るく人懐こい性格」というが、第11回公判で証言された「障害者の嫌悪」と「暴力的行動」と合わせると、弱者への共感能力にかけた乱暴な性格と言えるのではないか。とうぜん、工藤に問うべき問題である。

じつは、精神科医 工藤は、昨年5月に1回、被告と約1時間面接しただけで、地裁が起訴後に実施した精神鑑定の結果などを参照しながらの判断である。すなわち、同じ事実を参照しながら、どう解釈するかに違いが生じたと思われる。したがって、工藤に対する質疑が裁判においてとても重要だと言えるのに、報道からまったくそれが見えない。

雨宮は、また、被告が深刻な「妄想」状態だったのではと述べている。彼女はつぎのエピソードを書いている。

《 1月30日の面会で、私は植松被告に真鍋昌平氏の漫画『闇金ウシジマくん』(小学館)について聞いていた。1月24日の法廷で「横浜に原子爆弾が落ちる」「6月7日か9月7日に落ちる」などと言っていた植松被告だが、それが「『闇金ウシジマくん』に書いてあります」と述べていたからだ。面会でそのシーンが何巻にあるか聞くと「最終巻です。それの一番最後のところです」と言うので入手して読んでみた。
しかし、『闇金ウシジマくん』の最終巻に、彼が言うシーンは存在しなかった。
彼には一体、何が見えているのだろう?》

統合失調症のなどの「精神病」の診断では、よみがえる記憶を現実と誤って認識する状態を「幻覚」という。本人にとって嫌な声が聞こえる幻聴が多い。

この被告のケースは、原爆が落ちる記述がどこにあったかの記憶の話であり、「幻視」ではなく、単純な「記憶違い」の可能性もある。「彼には一体、何が見えているのだろう?」というほどのことではないように思える。

もちろん、裁判員や裁判官が、大沢や工藤にこのことをどう考えるのか、聞いてみても面白いと思う。


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