《民主主義は限界なのか》というタイトルのインタビュー・シリーズが朝日新聞で始まっている。まだ、連載が2回で、1回目が吉田徹・北海道大教授に聞く『絶頂期から30年、衰退の危機』、2回目が中西新太郎・関東学院大教授に聞く『「強権」のままでいい若者たち』である。
朝日新聞は「民主主義」を守りたいから、このシリーズが始めたのだろう。しかし、「民主主義が限界である」と誰がどのような理由でいっているのか、まだ、インタビュー・シリーズから見えてこない。討論がないから対話も生じない。インタビューではなく、寄稿の形で、民主主義否定論者と肯定論者がかみ合う形で、1週送りで討論をつづけ、レベルの高いものにしたほうが良かったのではないか、と思う。
それに、限界だと言われる「民主主義」とは何かについて、ある程度の合意がなければ、議論になりようもない。理念としての「民主主義」のことを言うのか、その理念を実現するための制度をいうのか、あるいは「民主主義」の実態を非難したいのか、論者によって異なってくる。
ソビエト連邦が崩壊したときが「民主主義の絶頂期」だとか、中間層が縮小したから民主主義が機能しなくなったという吉田徹の主張は納得しかねる。また、「民主主義の限界」というテーマとも無関係である。
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まず、民主主義の理念、“government of the people, by the people, for the people”が合意されるなら、あとは、どのように実現するかの問題になる。
トーマス・ホッブズは『リヴァイアサン』で、集まる意思のあるすべてのひとの合議体(assembly)で国が運営される場合は“democracy”と言っている。
しかし、すべてのひとが現実的に集まって討議することは、国の規模が大きくなってはできない。このために、現在は、選挙で選ばれた代表によって、国の運営が討議されている。この合議体を議会と呼ぶ。国のなかに右や左がいると言っても、この選挙制度にしたがっており、その意味で、昔、民主主義制度のあった国は依然として民主主義国家である。
ところで、国の機能は多岐にわたる。たとえば、社会生活のルールを決めること、ひとびとの争いを収めること(裁くこと)、社会生活を維持するためのサービスを日常的に行うことなどがある。
プラトンは、民主主義の国家は役職をくじで決めていると非難しているが、みんなが互いに相手のことを知っている小さな集団であれば、くじでも構わないだろう、と思う。現在では、サービス機関を自立した組織とし、その監督官を直接選挙で選ぶのがふつうである。また、議会がサービスを監視する。
「民主主義の限界」が「現在の民主主義的制度が機能していないこと」なら、その実装である制度を改善していけばよいだけである。何をもって「限界」というのか、知りたい。
選挙制度や裁判官任命制度や政府(サービス機関)の権限とその監視制度など、具体的に議論すべき論点が、いくらでもある。
いっぽう、理念としての民主主義の敵は、「優秀者による統治」というプラトン的考えや、人間は生まれながらにして平等ではないというカルヴァンイズム(Calvinism)である。「優秀者による統治」にプラトンは “βασιλεία”と“ἀριστοκρατία”という名前を与えている。どうして、プラトンなんかを賛美するひとがいるのだろう。
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