ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』を読むと「汎民族運動」が悪のはじまりの1つのように書かれている。共産主義のソビエトは汎スラヴ運動を引き継いで世界征服をたくらんでいたかのように書かれている。
本当に汎スラヴ運動なんてあったのだろうか。ポーランドの歴史、ウクライナの歴史、バルカンの歴史、ロシアの歴史、ビザンチンの歴史を読むかぎり、そのようなものは見受けられない。
スラヴ語圏には、被害者意識や劣等感からくるローカルな民族主義というものは見られるが、一部の集団が権力奪取の道具として、あるいは権力維持の道具として、民族主義を利用しただけではないのだろうか。1980年のチトーの死でユーゴスラヴィアが崩壊し、1991年には内戦にいたった。汎スラヴ運動なんてなかった。
汎ドイツ主義、汎ゲルマン主義も疑わしい。ドイツ語圏はプロテスタントとカトリックとの激しい争いがあったところである。深井智明は『神学の起源』(教文社)のなかで、プロテスタンティズムは南欧の宗教による中欧支配への反乱であったと言う。結局は被害者意識を権力者が利用しただけにすぎない。ナチスの汎ドイツ主義もドイツ国民にくすぶっていた被害者意識や劣等感を利用しただけではないか。
日本に、汎ヤマト民族主義があったなら、同じ民族として朝鮮人を対等に扱っていただろう。朝鮮語と日本語とは語彙や文法が近い。
小池清治の『日本語はいかにつくられたか?』(ちくま学芸文庫)によると、さらに、古代の日本語の音韻は朝鮮語と同じだったという。本居宣長(1780-1801年)が万葉集や古事記で同音音節の万葉仮名の使い分けを見出した。橋本進吉(1882-1945年)はこの使い分けは音韻の差に基づくと気づいた。朝鮮語と同じ8母音を古代日本人は使っていたのだ。しかも「母音調和」というアルタイ語の規則を各単語は満たしていたのである。すなわち、音韻からも、日本語と朝鮮語は同じアルタイ語圏にある。
しかし、ヤマト民族主義は、単に欧米への劣等感の裏返しに過ぎなく、他のアジア諸国への侮蔑、朝鮮や台湾の併合、満州国建国、そして、中国との戦争、米国との戦争に のめり込んでいく。
いま、イスラエルも、1948年にパレスチナに無理やり建国し、まわりの中東諸国をバカにして、西欧の一員かのように主張する。イスラエル国民は被害者意識と劣等感にとらわれているのではないか。
ハンナ・アーレントは、シオニストの暴走を歯止めするため、被害妄想、劣等感というものをもっと分析すべきだったと思う。
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