私が数学や物理以外の本を読みだしたのは、定年退職した60歳以降のことである。そのなかで、とくに印象深かったの本の1つに、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』(東京創元社)がある。近代社会が苦労して得た「自由」をみずから手放す人たちがいるのはなぜだろうかが、本書のテーマである。
当時、読んでわからなかったのは、都市の没落中産階級へのフロムのすさまじいまでの憎しみである。近代になって、ばらばらの個人になった彼らが「自由」であることにおののき、強い力に服従しようとしたことが、ナチスの権力掌握に可能にしたとフロムは言う。
最近、鶴見太郎の『イスラエルの起源』(講談社選書メチエ)、森まり子の『シオニズムとアラブ』(講談社選書メチエ)を読んで、そのフロムの危機意識を共有できた気がする。
ナチスやシオニストの力の源泉は、没落中産階級を集めたことである。
20世紀に経済活動の大きな変化がヨーロッパからロシア帝国まで起きた。文字が読め計算ができることだけでは、社会で安定した仕事が得られなくなった。近代的な生産様式が急速に普及し、手工業者や小規模商店主が、大資本の製造業や流通業の前にビジネスが奪われ始めるが、しかし、大資本家に雇われる労働者になりたくない、という思いが強かった。この不安と不満を吸収したのが、民族共同体運動である。民族共同体には階級闘争はない、みんな仲間である、と考える。
民族共同体運動の落とし穴は、他の民族に対する態度である。
ユダヤ人のシオニストとドイツ人のナチスの類似性は、自分たちの民族が他の民族より優れているとし、自分たちだけの国家を作り、他の民族の抹殺をはかることである。ナチスはスラブ人やユダヤ人やその他の少数民族を劣等民族とし、民族純化をはかった。シオニズムはアラブ人やトルコ人を野蛮な劣等民族とみなし、武力で追い払い、時には虐殺した。
フロムは、『自由からの逃走』のなかで、民族共同体運動については論じていない。しかし、近代人はどこかの集団に属してその指導者に思考をゆだねることがあってはならない、とフロムは考える。近代人はあくまで個人主義で自由を重んじるべきだとする。
フロムはユダヤ人である。とうぜん、当時のシオニストの主張を知っていたはずである。フロムは自分がユダヤ人に属するという考えより、人類のなかのひとりの個人であるという考えを、ナチスやシオニストの台頭の中であえて、選んだのだと私は思う。
フロムは、『自由からの逃走』のなかで、ナチスを支持する人たちが近代の個人主義と自由主義におののいて思考停止に陥っているのか、を暴くとともに、シオニズムからの決別を告げたのだと思う。
以前、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』の前半、ユダヤ人が受けてきた迫害の歴史の部分を私は読めなかったが、今回のガザ侵攻と鶴見太郎と森まり子の書の出会いで、読めるようになったか、という気がする。早速、『全体主義の起源』を図書館に予約した。
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