猫じじいのブログ

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聖書の「会衆」と「共同体」の訳語の違いに意味がある

2019-06-23 23:19:42 | 宗教


私が、聖書の新共同訳を初めて読んだとき、びっくりした語がある。口語訳で「会衆」とされたもの多くが、「共同体」と訳されたのである。ところが、昨年出版された聖書協会共同訳では、これが「会衆」に戻っていた。

これについては、聖書協会共同訳の付録、「用語解説」に説明が載っている。

ヘブライ語“עדת”(エダー)は、政治的、宗教的集団としてもイスラエルを構成する成人男子の公的集会を指す。ヘブライ語“קהל”(カハール)は、祭儀執行の場に集合した人々を指す。本訳では「会衆」という訳語をともに当てる。なお、前者のギリシア語訳では“συναγωγή”(シナコゲー)が、後者には“ἐκκλησία”(エクレシア)という訳語が当てられている。
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ヘブライ語で意味が違うのに、70人訳ギリシア語聖書では違う訳語が当てられているのに、聖書協会共同訳は、なぜ、同じ訳語「会衆」を当てたか、不可解である。新共同訳では、ヘブライ語「エダー」に「共同体」が、ヘブライ語「カハール」に「会衆」または「集会」が当てられている。

私が思うに、ただ、ルター訳に戻っただけであると思う。ルターは「エダー」をドイツ語“Gemeinde”と訳し、「カハール」をドイツ語“Gemeinde”または“Versammlung”と訳した。口語訳および聖書協会共同訳では、ドイツ語“Gemeinde”を「会衆」と訳し、ドイツ語“Versammlung”を「集会」と訳しただけである。聖書協会共同訳作成の段階で、突っ込んだ議論を避け、これまでの慣習にしたがうとしたのではないか。
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旧約聖書に当たってみると、『出エジプト記』では、すべて、「エダー」が使われ、『申命記』では、すべて、「カハール」が使われている。何か意味があるのではないか。

また、新約聖書では、ユダヤ人の集まりに「シナコゲー」が、キリスト教徒の集まりに「エクレシア」が使われている。「シナコゲー」が「公的集会」であるということは、住民が集まってものごとを決めることができる、自治体のようなモノであった、と思う。

そう考えると、旧約聖書で『出エジプト記』と『申命記』との違いは、次のよう考えることができる。『出エジプト記』では、「エダー」は自分の意思をもった集団で、しばしばモーセの指示に逆らう。『申命記』では、「カハール」は集まってモーセの指示に従うだけの集団で、文の主語になることがない。主体的集団ではないのだ。『申命記』を編集した時期には、祭司集団とユダヤ共同体との対立がなくなったか、あるいは、編集者は、ユダヤ共同体の意思を無視していたのだと思う。


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