きょうの朝日新聞GLOBE(グローブ)は、特集『みんなで決めるってむずかしい 民主主義のいま』を掲載していた。
初めに、注意しておきたいのは、「民主主義」とは、別に、みんなで決めることではない。表題はズレているのではないか。
民主主義は、政治権力の問題であり、民衆(peopleまたはworkers)が権力をもっている政体ことである。権力をもっているとは、自分たちの社会のあり方に関して、自分の考えと意志をもち、それを実現することができることを言う。
この特集の最初の論考は、記者の玉川徹の『若者の感覚は支持されそうな人に1票入れます』である。この論考は端的にいうと、特集の表題「みんなで決めるってむずかしい」という問題以前の、「現在の若者たちが民主主義を放棄している」ということである。エーリック・フロムの『自由からの逃走』と同じ問題意識である。これが事実であれば、私にとって、とても悲しいことであり、このような若者たちをバカとしか言いようがない。
駒澤大学のゼミで、「森友・加計学園」問題について議論したとき、安倍政権の対応を肯定する意見が7割をしめ、「そもそも総理大臣に反対意見を言うのは、どうなのか」という意見がでた、という。
民主主義とは総理大臣にしたがうことではない。不公平があれば、相手が総理大臣であっても、それをいけない、と言うのが民主主義である。
また、都内の大学4年生は「多数派から支持を得ている人に投票します」と玉川に答えている。
これって、自分の考え、自分の意志はどこに行ったのだろう。多数派の誰もが自分の考えをもっていなくて、単に、雰囲気で多数派と思っているなら、付和雷同にすぎない。これでは、ある日、突然、独裁者がでてきてもおかしくない。
駒澤大学のゼミの話に戻ると、多数派の学生は、政権に批判的な学生に対して、「空気が読めていない、不愉快」と言うのであった。その理由として、リポートに書いてもらうと、「政治の安定性を重視」をあげるのが多かった。
「政治の安定」も「政治の効率」も まやかしである。そんな言葉に騙されてはいけない。
私は悲しいけれども、このような若者たちを責めることはできない。昔も今も若者たちはバカが多数派である。人間は自分で考え、自分の意志をもつには、多くの時間と努力が必要である。
というのは、人間は体験を通じて記憶されたことに基づいて動く機械にすぎないからだ。この呪縛から脱するには、与えられた体験の記憶ではなく、自分から真理を求めて、過去の人の思索の跡をたどったり、ひとりでよく考えたりする必要がある。
家庭内のコミュニケーションションが崩壊し、友達同士の遊びの場が崩壊すれば、子どもの体験の中心は学校教育や塾が中心となる。学校では、与えられた教材をひたすら学び、互いに競争するように訓練される。そして、別途、政府が「公民」「日本史」「道徳」の教科を通じて、民主主義に反する価値観を子どもたちに植え付けている。
これが、保守政権がやってきたことである。
その結果、民主主義とは、選挙に勝った党派の意見に従うこと、国会で指名された総理大臣の指示に従うこと、と洗脳されてしまう。従って、若者が自由や平等や民主主義を放棄したりすることは、何も不思議ではない。
ギリシアで民主主義が起きたとき、政府や官僚なんていなかった。現代社会は、社会の経済活動が複雑になっているから、行政サービス機関は必要である。しかし、統治のための政府や官僚はいらない。総理大臣の指示だから従うというのは変である。総理大臣が権力を濫用するなんて、あってはならないことである。
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