J. K. ガルブレイス(1908年―2006年)の『ゆたかな社会 決定版』(岩波現代文庫)につぎの言葉がある。
《 ゆたかな社会は、同時にまた同情心と合理性をもっていさえすれば、品位と慰安に必要最小限の所得を、必要とする人に与えることができる筈である。不労所得は人心を堕落させるといわれているが、それは、飢餓と窮乏が人格の陶治に役立つというのと同様に、誇張であることは疑いない。》
私より上の日本人は飢餓と窮乏を覚えている。飢餓と窮乏は人格を決して偉大なものにしない。ある人は不正や暴力が生き残る唯一の道だと思いこむ。いっぽう、ある人は社会の決めごとを固執し、飢え死にする。
日本は、せっかく、戦後の貧困から立ち直ったのだから、いまこそ、貧困にあえぐ人々をなくさないといけない。貧困は本当にとつぜんやってくる。
私の姪も、新型コロナと離婚でにっちもさっちもいかない事態に陥っている。シェフになりたくてレストランで働いていたが、この新型コロナで職を失った。離婚のほうは、家裁協議中で、離婚が成立していず、母子家庭でもない。新型コロナ禍で協議が1年以上進んでいない。
そうすると、何が起きるのか。建て替えのためにアパートの立ち退きが迫られているが、定所得を証明できないので、新しいアパートが借りられない。助けたいが、年金暮らしの私では保証人になれないとのことである。東京都の福祉事業の対象にもならず、美人だった姪はいま孤立している。痩せこけて頬骨がつきでてきた。
10年前、民主党、特に前原誠司は中間層を増やすといったが、私はこれを支持できない。ゆたかな社会のいまだからこそ、貧困をなくさないいけない。
トマス・ホッブズ(1588年―1697年)は『リヴァイアサン』につぎの警句を書きしるしている。
《富が気前の良さと結びついた場合も力である。それは友人や召使を獲得するからである。気前の良さがなければ力ではない。なぜならこのばあい、富は人を守りはせず、逆に彼を嫉妬の餌食にするからである。》(永井道雄、上田邦義 訳)
これは、暴力の「餌食」となると、ほのめかしている。
ここでの「気前の良さ」は原文では“liberality”である。宇野重規が言うようにリベラルに「気前の良さ」という意味があったのだ。“liberalism”を自由主義と訳さずに、リベラリズムと読んだ方がよい。
リベラリズの走りといわれるジョン・ロック(1632年―1704年)は、『統治論』で、私有財産権を主張しているが、それは自分の労働を通して得られるものに制限していた。
現在のように、生産活動がひとびとの協業によってなされている時代には、どこからどこまでが、自分の労働の分か、曖昧である。昔の「成果は共有」という考えが復活していいのではないか。近代以前の「共産主義」にも一理あるのではないか。格差を容認し、中間層をふやすという方針は誤りだと思う。貧困に苦しむひとを放っておかない「気前の良さ」が求められている。
[補遺]なお、ロックは暴力によって不正をうちやぶる権利をも主張している。
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