旧約聖書『創世記』の「エデンの園」は、最初の男女であるアダムとエバが「善悪を知る木の実」を食べて、神によって楽園を追放されるという物語である。
しかし、人間が「善悪」を知ることを、なぜ、神が禁じたのか、昔、不思議に思った。そして、ある日、「善悪」というのが誤訳である、ということに気づいた。
この「善悪」は、ヘブライ語“טוב ורע”(トーウブ・ワーラー)の訳である。ヘブライ語は、現在のアラビア語と同じく、右から左に文字を読む。
“טוב”(トーウブ)は「よい」と、“רע”(ラー)は「わるい」と訳せる。しかし、これらの語は、英語の“good”や“bad”のように、幅広い意味をもつ。
しかも、昔のヘブライ人やギリシア人に、今のような道徳的や倫理的な価値観はないから、「善悪」と訳しては、いけないのだ。
すなわち、「よい」「わるい」は、自分にとってなのか、わたしとあなたにとってなのか、みんなにとってなのか、神や権力者にとってなのか、文脈で判断しないといけないのだ。
70人訳ギリシア語聖書では、ヘブライ語のトーウブには“καλός”(カロス)か “ἀγαθός”(アガトス)が、ラーには“πονηρός”(ポネーロス)か“κακός”(カコス)があてられた。
ギリシア語のカロスとポネーロスは自分の感情的判断をさし、アガトスとカコスは話者と聞き手が同意できる判断をさす。
ポネーロスは日本語で「邪悪な」と訳されることが多いが、「非常に悪い」という意味ではなく、「忌々しい」とか「不快な」という意味である。
たとえば、『創世記』28章8節のラーは、70人訳ギリシア語聖書では ポネーロスと訳され、日本語聖書では
「エサウは、カナンの娘たちが父イサクの気に入らないことを知って」(新共同訳)
と、「気に入らない」と訳されている。
別に、カナンの娘たちが「邪悪な」のではなく、エサウの父、イサクが単に不快に思っているというだけである。いってみれば、イサクが「差別」感情をもっていたということだ。
70人訳ギリシア語聖書では、エデンの園の物語の「善悪」(2章9節、17節、3章5節、22節)に、カロスとポネーロスが使われている。すなわち、アダムとエバは、「善悪」を知る木の実ではなく、「ここちよいと きもちわるい」を知る木の実を食べたのである。だから、「エデンの園」は、アダムとエバが人間的感情をもったので、もはや、彼らは神のペットでありえない、という物語である。
したがって、旧約聖書のどこにも、アダムとエバが「ここちよいと きもちわるい」を知る木の実を食べたことを、「つみ」としていない。
旧約聖書の『申命記』1章39節にも、同じヘブライ語“טוב ורע”(トーウブ・ワーラー)が出てくる。70人訳ギリシア語聖書では、“ἀγαθὸν ἢ κακόν”(アガトン・エー・カコン)と訳されている。ここでは、「まだ善悪をわきまえない子どもたち」は、神の約束の地カナンに行ける、と理解して問題がない。ここでの「善悪」は、社会(世間)の掟による判断をさす。
新約聖書の日本語翻訳にも間違いが見られるが、旧約聖書の翻訳は非常に間違いが多い。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます