日本人の多くは、キリスト教を、死ねば「天国」か「地獄」に行くという宗教だと思っているようだ。
この誤解は日本人だけではない。ウディ・アレンのコメディ映画に、悪さばかりしている息子がユダヤ人一家にいて、つかまって死刑囚となる物語がある。その息子が刑務所のなかでユダヤ教からキリスト教に改宗するので、ユダヤ人一家が大騒ぎとなる。母が改宗の理由を息子に尋ねると、ユダヤ教には死後の世界がないが、キリスト教には死後の世界があると、その息子は答える。
確かにユダヤ教には死後の世界はない。神は「生きている者の守り神」である。生きていないと神の恩恵を受けられないのである。しかし、初期のキリスト教徒が死後の世界を別に思い描いているわけではない。
新約聖書の福音書によれば、イエスは、「神の国」がすぐに来る、そして、来ていると言って、病気を治して歩いていたのである。だからこそ、福音書なのである。「良い知らせ(εὐαγγελίον)」なのである。
『マタイ福音書』は「神の国」の代わりに「天の国」ともいう。「天国」のあいだに「の」がはいるということである。口語訳の「天国」は誤訳で、新共同訳や聖書協会共同訳では「天の国」に正されている。
新約聖書はもともとギリシア語で書かれていた。「神の国」は“ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ”(ヘー バシレイア トゥー テオゥー)である。「天の国」は“ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν”(ヘー バシレイア トーン オゥラノーン)である。
さらに、ギリシア語 “βασιλεία”(バシレイア)は、佐藤研、田川建三、山浦玄嗣によれば「支配」「統治」という意味である。“βασιλεία”は、「治める」「支配する」という意味の動詞の“βασιλεύω”の語尾を-ίαに変えることで、女性名詞に転換したものである。
『マタイ福音書』3章2節は、口語訳では「悔い改めよ、天国は近づいた」となっているが、別に、しだいに天が地上に近づいた、すなわち、空が低くなったわけではない。「天の支配が近づいた」ということである。なお、「悔い改めよ」は「スパーと心を切りかえよ」という意味である。
(ただし、プロテスタント保守派のカール・バルトの本を読むと、イエスの時代に天が地上に近づいたと、本当に思っているように見える。)
「神の国」は「神による統治」または「神による支配」のことである。「神による統治」が行われるというのが、新約聖書の中心メッセージである。
「神の支配」によって何が起きるのかだが、悪い人が裁かれるというのが「神の審判」という理解である。
田川建三は一連のパウロの手紙を読み解いて、パウロは、死んだ人も眠りから生き返り、「神の支配」を楽しむことができると信じていたと言う。
ただ、「生き返る」という表現は新約聖書では使われておらず、「立ち上がる(ἀνίστημι)」という言い方をしている。ユダヤ人の考え方からすれば、神は生きている者の神であるから、そのとき、眠りから覚めて生きていないといけないのだ。
加藤隆は神が個々人の心に直接語りかけるのを「神の支配」の初期の理解であるという。
エーリック・フロムは、「神の支配」がなかなか来ないなか、キリスト教徒は「神の国」を「教会」(エクレーシア、ἐκκλησία)と解するようになった、と言う。フロムは、同じように共産主義の国がいつまでも実現できなくて、「共産党」に属することで、満足することで、国家主義への変質の罠に落ち込んだと考える。
深井智朗は幽霊を信じる北方ヨーロッパ人がキリスト教徒になることで、「神の国」が現世でなく、死後の世界になったと言う。また、「神の支配」が来ていないのではなく、到来が始まったが終わっていないのが神学者の説明であるという。
20世紀初頭のドイツ人マックス・ヴェーバーは、カルヴァン派は死後の世界を意識して現世では禁欲すると言う。
とにかく「天国」は誤訳であるが、「神の国」が来ないため、聖書を読まない人たちが「天国」と誤解することが、聖職者に都合が良かったようである。
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