旧約聖書というと、多くのひとは、モーセの五書の『創世記』などや王朝記の『サムエル記上下』などや『イザヤ書』を思い浮かべるかもしれない。あるいは、人によって、後期の終末論(黙示録)の書からいくつかあげるだろう。これらは、自分たち祭司の正当性を、あるいは、自分たちユダヤ人の民族的正統性を主張するために、書かれたもので、歴史の偽造である。
しかし、ユダヤ人がそんな自己勝手な連中ばかりのはずはない。ヘレニズム時代には、同じアラム語を話すシリアにはストア派の哲学者たちがいた。旧約聖書にも、その時代背景に呼応し、哲学的・思想的な書が存在する。『コヘレトの言葉』がその1つである。
この「コヘレト」は何を意味するのか、この書にしか出て来ないので、わかりようがない。口語訳では「伝道者」と訳したが、どこにも根拠がない。作者が勝手に作り上げた人名かも知れない。
他の旧約聖書の書と違い、いかなる物語も『コヘレトの言葉』にない。あるのは、作者の人生観や政治哲学への言葉である。
『コヘレトの言葉』には、神を意味する「אלהים(エロヒム)」は出てくるが、神の名前「יהוה(ヤハウェ)」は全く出て来ない。イスラエルの神ヤハウェを明らかに否定している。
さらに、1章9節で、「太陽の下、新しいことは何1つない」と言いきる。すなわち、「終末」や「最後の審判」をも正面から否定している。
『ヨブ記』が取り上げた、「神は人間の願いに答えるのか」、「人間の行為、善と悪とに報いるのか」という問いに否定的なのが『コヘレトの言葉』である、と、上村静は『旧約聖書と新約聖書』(新教出版)で言う。
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じつは、『コヘレトの言葉』5章8節の口語訳、新共同訳が、ともに おかしい。
口語訳の「しかし、要するに耕作した田畑をもつ国には王は利益である。」は、明らかに意味をなさない。
新共同訳の「何にもまして国にとって益となるのは/王が耕地を大切にすること。」は、『コヘレトの言葉』の他の部分とつじつまがあわない。
昨年でた新翻訳、聖書協会共同訳では、「何よりも国の益となるのは王自らが農地で働くことである。」である。これが良い。
ずいぶん、聖書協会も民主的になった。ただし、訳の「国」は、ヘブライ語原文のどこにもなく、たぶん「ארץ(大地)」を勝手に意訳したのだろう。
私が5章8節のヘブライ語原文を訳すなら、「大地が実りゆたかであるのは、王みずから畑で働くからだ」とするだろう。語彙の意味と文法構造からこれしかない。
このコヘレトの精神は次の5章11節に引き継がれる。
「たらふく食べても、少ししか食べなくても、働く者の眠りは快い。富める者は食べ飽きていようとも、安らかに眠れない。」(新翻訳)
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ところで、『コヘレトの言葉』のキーワードはヘブライ語「הבל」である。口語訳ではこれを「空」と訳した。新共同訳は「空(むな)しさ」と訳した。新翻訳はふたたび「空」と訳している。
「空しさ」と訳すと『コヘレトの言葉』は虚無思想の書と誤解されやすい。わたしは、中立的な響きの「空」のほうがよいと思う。
それでも、この「空」という言葉は何かよくわからない語である。「空」は、仏教用語では感覚器で知覚できる「色」の反対語で、サンスクリット語からの下手な漢訳、と仏法研究者たちは指摘する。
中国語の「空」は「穴」を原義とし、「空っぽ」なことを言う。仏教の原義より、中国語の原義のほうが、ヘブライ語「הבל」の意味として私にはしっくりくる。
私なら、1章2節「הבל הבלים אמר קהלת הבל הבלים הכל הבל׃」を
「からっぽ、すごくからっぽ、とコヘレトは言う。からっぽ、すごくからっぽ、からっぽ。」
と訳すだろう。人生が「空しい」と言いたいのではなく、もったいぶって色々なことを教えている人たちがいるが、そんなもの、中身がない、と嘲笑しているのだ、と思う。
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