朝日新聞フォーラムで、『カイシャの会議』という特集を3回にわたって行い、きのう、5月12日で終わった。
これは、誰のための特集なのか、なぜ会社が「カイシャ」になっているのか、なんのための会議なのか、意味がわからないものであった。
外資系では、会社というものは、組織というものは、利害の対立するグループからなりたっていると教えられる。社会の縮図なのである。
利害の対立するグループを、英語では、ステークホルダー(stakeholders)という。
日本人は、昭和の「和」、令和の「和」で浮かれているのではないか。「和をもって尊しとなす」とは、「和」というのが白々しいほどの格差が社会にあるからである。
「対等をもって尊しとなす」が、利害の対立するグループがあるときの話し合いの原則である。
「和」なんて、日本人はいつからバカになったのか。江戸時代からか。軍国主義の1930年代からか。学園闘争に負けた1970年代からか。道徳教育が始まって、学校で「良い子の会議」を教え込まれたからか。
まず「カイシャの会議」は誰が主催するのかが、問題である。
主催者が、上司であるとき、会社の経営者であるとき、単に、上に対しての忠誠度をチェックしているだけかも知れない。もし、そうなら、会議をやめろとみんなで怒鳴るのが、欧米では普通である。日本の「朝礼」は会議でなく、上から下への指示の場である。そうならば、わかりやすく簡潔に指示するのが、管理者の務めである。
利害の対立するグループの話し合いは、殺し合いを避けて、妥協点を探ることである。時間がかかるのは仕方がない。決まらなくても仕方がない。このとき、本音を話さないような人が会議に出てきても、困るのである。決まったことは、実行するつもりの人が出てこないと困るのである。
現場の仕事のように、チームで働くところなら、チーム内で相談する必要もあるだろう。必要があるときに会議を開くのだから、不定期のはずだ。目的がはっきりしない会議なんてないはずだ。話し合いは対等でないといけない。若い人もチームに参加したなりの人も発言できないといけない。チームの人間以外が参加しても困る。結論が出そうもないなら、改めて相談すればよい。
まとめると、会議に、自己決定能力がないなら、意味がない。
そして、組織の中で、利害が対立する現実に目をつぶり、そして、民主主義の原則「対等」を尊重しないなら、会議に意味がない。
意味のない会議を「効率化」するには、会議を廃止するしかない。
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