猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

脳科学の進展は 精神医学や哲学を 書き換える

2019-11-25 00:13:43 | 脳とニューロンとコンピュータ

私は、L. R. スクワイアとE. R. カンデルの『記憶のしくみ』(ブルーバックス)を読んでから、人間は記憶で動く機械である、と考えるようになった。

記憶は、神経細胞(ニューロン)の接続によって保持される。接続といっても、20ナノmくらいの隙間が空いている。炭素原子が約200個くらい並ぶくらいの隙間であるが、光学顕微鏡では見えない小さな隙間である。記憶するとは、新たな神経細胞の接続が作成されることである。

脳の機能は、興奮がこの神経細胞の接続によって伝えられることで、実現される。おのおの神経細胞は、興奮を受け取る部分と興奮を伝える部分とがあることで、興奮が一定方向に流れる。ひとつの神経細胞がもつ接続部分の数は数千個から1万個ある。だから、外側から刺激を与えると、脳全体に興奮が広がる。MRIなどで、脳のなかに興奮の広がるさまが観測できる。

すべてのヒトは、1個の受精卵として、その人生を始める。こう考えると、生まれつきの「理性」が人間にあるわけはない、との思いになる。ニーチェは、人間を約束できる動物にするのが教育の目的だと言う。

同様なことをフロムが指摘する。「良心」とは、「自分自身のなかに引き入れられた奴隷監督者」にほかならない。「良心」が命ずる願望や目的は、じつは「外部の社会的要求の内在化したもの」であるという。

豊泉太郎は『つながる脳科学 「心のしくみ」に迫る脳研究の最前線』(ブルーバックス)で、脳の神経回路網の発達に2段階あるという。最初に遺伝子の情報で自律的に神経回路網が作られ、その次に外部からの刺激(体験による学習)で神経回路網が作り上げられる。すなわち、一般的仕様(general purpose)の脳がまず形成され、その後に、環境への対応のために、学習によって記憶の神経回路網が形成される。豊泉は後の段階を「臨界期」と呼ぶ。人間はボケるまで記憶できるから、この臨界期は非常に長いと言える。臨界期にいたらないのに、無理やり記憶させることは、本人に苦痛を招くし、効率が悪い。

ネズミもネコもイヌもヒトも脳の仕組みは同じだ。ともに、大脳皮質や小脳だけでなく、海馬や扁桃体や線条体や視床や視床下部をもつ。だとすると、「こころ」があるのは人間だけではない。フロイトは、ヒトがネズミやネコやイヌと同じ構造の頭をしているのなら、人間の「こころ」も、それらとかわらないと考えた。ユングは牧師の息子だから、そんな考えが受け入れられず、「良心」や「理性」にこだわった。

カンデルは『芸術・無意識・脳 精神の深淵へ:世紀末ウィーンから現代まで』(九夏社)で、人間の情動の役割を強調する。情動は扁桃体の機能である。情動が先に結論を決め、それに屁理屈をつけたり、実現手順を考えたりするのが、大脳皮質の機能だと言う。大脳皮質も情動も、記憶で神経回路網が作成される。

フロイトは「意識」「無意識」の概念を持ち込んだ。ユングもフロムもフロイトと同じような意味に「意識」「無意識」を使う。いっぽう脳科学者が使う「意識」は脳が機能していることである。それは、脳の中に興奮が広がることである。したがって、脳科学者は「無意識」という言葉を使わず、「覚醒」「非覚醒」ということになる。

フロイトやユングやフロムのいう「意識」は、ヒトが自分自身のことに関して言葉で思い浮かべることである。言葉で思い浮かべることができないことが「無意識」となる。精神分析医は、「無意識」な思いを言葉に転換する。これを治療だする。神経症は、無意識の欲望や不安を意識が抑圧することで生じる、と考えるからだ。

すなわち、ヒトの「意志」とは言葉で表現される願望であるが、それを本人が本当にそれを望んでいるのかわからない。子どもの生理的欲求は確かに本人のものだが、大人は教育をつうじて言葉に飼いならされている。

伊藤亜紗は『どもる体』(医学書院)で、どもりを直そうとすると苦痛であるばかりか、自分が自分でないような感覚になると書いている。人間のからだは、言葉に指令されて動いているわけではない。たんに、脳の中の動作神経モジュールに興奮が伝わって、運動神経への順序だてた興奮に組変えられ、舌や唇や喉や肺の筋肉に伝えられるのだ。

言葉で ああしろ こうしろ といわれても、どもりを矯正できないのだ。

人間の脳は言葉で動いているわけではない。記憶の中には、言葉によるものがあるが、言葉によらないものほうが ずっと多いのである。また、言葉で動作を意識すると ぎこちない動きになってしまう。

聞こえる声が、自分の記憶の断片なのか、外部からの本当の声なのか、ヒトやネコやイヌは、目に見える情景との整合性によって判断する。脳の機能が弱っていると、整合性の判断ができなくなり、幻聴が起きる。統合失調症の治療では、脳が活動しすぎるとの考え方から、脳の働きを抑える薬を使用する。しかし、加藤忠史は、「陰性症状」と「陽性症状」とがあるとき、「陰性症状」が病気の本質だと言う。脳の働きが弱っていることこそ病気の本質だという。「幻聴」が抑えられるということから、脳の働きを抑える薬をだしていると、「陰性症状」が改善されず、運動神経がやられてしまう。

脳の中には色々な感覚器から興奮が脳に次々と送られてくる。それぞれの興奮が神経回路網のなかに広がり、相互に作用することで、興奮の伝達を抑えられたり、望ましい神経モジュールに興奮が伝えられる。脳の視床下部に神経細胞の興奮伝達を同期させる神経細胞がある。これが、興奮の相互作用を助けている。興奮の相互作用とは、1つの神経細胞に、異なる神経細胞から伝わり、興奮を強めあったり、弱めあったりすることでなされる。タイミングよく、興奮を受け取らないといけないから、同期が大事となる。

脳波は、同期を調整する神経細胞の動きを電圧ではかったものだ。

てんかんは、この同期調整の神経細胞の異常行動と考えられる。脳波の測定でてんかん発作の可能性が見出される。

21世紀のこの脳科学の進展で、精神医学や哲学が書き直されていく、と感じずにはいられない。

共同体への憧れが排除と均質化へと落ちこまないために

2019-11-22 22:58:35 | 思想

われわれのこころのなかに、漠然とした「共同体」への憧れがある。競争のない社会、互いに助け合う社会、平等の社会への憧れである。

「共同体」は、英語のcommunityの訳、ドイツ語のgemeinschaftの訳である。「共同体」はコミュニティのことなのだが、ドイツ語が優勢な教養人のあいだでは、ゲマインシャフトのほうが好まれるようだ。辞書を見比べると面白い。

カウツキーによれば、初期の共産主義(communism)は共同体主義であったという。すべてのものの共有を唱えた。「共産」の「産」は「財産」の「産」である。

ドイツのナチズムは、国民共同体(Volksgemeinschaft)運動であった。民族共同体と訳してもよい。「共同体」の危うさがナチズムに端的に現われている。それは、排除の論理である。

私のNPOに来ていた女の子が、中2のとき「いじめ」について作文を書いた。冒頭はつぎで始まる。

「私達は、つるむ事が好きです。一人でいることがとても寂しく感じます。友達の中にいると安心するので、自分のポジションが一番下で、いじめに あったとしても、そのグループの中からは抜けられないのです。」

一見、集団が平等で助け合うように見えても、その集団から排除されないようにと各個人が意識するようになると、自由が失われ、相互監視集団となり、ちょっとしたことで、いじめが発生する。

多くの宗教団体は「信仰共同体」をつくり、それが信者を増やす原動力となるとともに、いじめ発生の要因とも なるである。

ポピュリズムを、じっぱひとからげに、大衆迎合とバカにするが、その背後に、競争に追いやられることの民衆の根深い不満があるのだ。能力がなくたって、なにが悪いのか、同じ人間ではないか。私もそう思う。問題は、現実のポピュリズムも反ポピュリズムも、だれかを排除しようとすることにある。自分たちの生活を破壊したのは「移民」だ、「ルンペン集団」だ、同質性を壊すものだ、となる。排除が起きる。じっさいには弱い者いじめをしているのにすぎない。

安倍晋三の言動も弱い者いじめをしているのだ。国家や国旗に涙する人をたたえ、戦前の日本がアジアのひとびとの解放に戦ったように言うが、真実は、アジアのひとびとに神聖天皇の崇拝を強要し、植民地、占領地に鳥居を建てたにすぎない。安倍晋三は、ムン・ジェイン大統領が気に入らないと言って、韓国を排除しようとしている。

ナチズムもユダヤ人を地上から排除(抹殺)しただけでなく、自分たちと違う考えを述べたとして、トーマス・マンなどをドイツから排除(追放)した。

共同体の憧れが、排除の肯定や均一化の強要や自由の否定におちいらないように、しないといけない。

生きる意欲に力をあたえない哲学に何の意味があるのか、國分功一郎

2019-11-21 23:27:14 | こころ


國分功一郎の『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)は、本当につまらない。医学書院の「シリーズ ケアをひらく」は面白いものが多いが、これは本当に面白くない。シリーズの他の本がもっているような、どうしても伝えたい自分の思いがない。たんに、自分の知識を、しかも他の本から得られるような知識を見せびらかしているにすぎない。

NPOでサーポートが必要な子どもに、場合によっては大人に接しているとき、生きる意欲を見出すとほっとする。
これまで発語がない子どもが、トイレに行きたい、お茶をのみたい、などと はじめて言うのを聞くと、とっても うれしくなる。生理的欲求は生きる意欲である。

私は、それを生きる意志だと思う。

うつの子が私に会いに来ないととても心配になる。死にたいと言っているからだ。来てくれれば、生きる意欲を吹きこむことができる。

意志は、また自分の置かれた環境に逆らうための一歩である。もちろん、逆らっても変えられるか どうかは わからない。

たしかに、古代ギリシアの文献や聖書を読んでも、「自由」とか「意志」とか「自由意志」とは出てこない。根底に過酷な社会があった。

秦剛平訳の『ユダヤ古代誌』(ちくま学芸文庫)の4分冊目(13巻9章)に「自由意志」という単語が出てくる。じつは、ヨセフスの原文(ギリシア語)にはそんな語は出てこない。秦剛平の勇み足であるが、考え方によっては、的を得ているとも言える。

ヨセフスの言っているのは、運命というものにたいするユダヤ人3派の考えである。ファリサイ派よれば、人間の行為の多くは運命のしわざだが、あるものは運命ではなく自分のしわざによる。エッセネ派によれば、すべてが運命により、人間によるものはない。サドカイ派によれば、運命というものはない、われわれの行為は、善であれ悪であれ、すべて自分のしわざである。

私が思うに、「運命」に逆らおうとするのが「意志」である。ニーチェの場合はさらに進んで、自分の思いにあったように真理を変えるのが「意志の力」となる。

われわれは微力である。われわれのNPO内でも話題となったのだが、「無力の学習」という現象が子どもたちの一部にみられる。学校の先生に何を言われても黙ってうつむいて、勉強も宿題もしない。時間が過ぎていくのをただただ待っているのだ。これは、何もしなくても、何もこの世に期待しなければ、生きていけると、その子は「学習」したからだ、と言う。何もしない、何も期待しない、とは、生きる意志を棄て去ることである。

昔、中動態があって、いま、中動態がなくなった、ということは、微力なわれわれが運命(環境や記憶)に抗することに、なんらかの力になるのだろうか。そうは思えない。

やさしい日本語ではなく、わかりやすい日本語を

2019-11-18 22:52:41 | 教育を考える


2日前の朝日新聞に、「社内コミュニケーション 英語じゃなくて、やさしい日本語」という記事があった。外国人を含む職場でのコミュニケーションで、やさしい日本語を話そうということである。

ネットで調べてみると、今年の3月の毎日新聞も「やさしい日本語」という社説をかかげていた。また、「やさしい日本語」を話すマニュアルを公開して地方自体もいくつかある。いずれも、日本人が外国人に何か伝えようとするとき、「やさしい日本語」を使おうということである。

この「やさしい日本語」とは、じつは、「わかりやすい日本語」のことである。別に相手が外国人に限らず、コミュニケーションにおいては相手に「わかりやすい日本語」で話すのが、あたりまえと、私は思う。

なのに、これが日本社会では受け入れられず、逆に、「わかりにくく」話す人が当然の顔をし、「わからない」聞き手が責められる。
この身勝手な態度は、親や教師や雇い主が「発達障害者」に向かって話すとき、特にみられる。自分の非を認めず、相手を責める。知的なはずの精神科医も講演や著作で「発達障害者」を推察力が欠けていると ののしる。

日本人が「わかりにくい日本語」で話す理由はいろいろと考えられる。

(1)明治時代に、儒学を学んだ士族が教育にたずさわったため、特殊な書き言葉が、そのまま、話し言葉に使われるようになった。

(2)明治、大正、昭和と強権的な政府が続いたために、知識人が、仲間以外には自分の本音がわからないように、書く習慣がついた。予備校カリスマ教師の林修は、大学入試に使われる現代文の複雑さがこのためだと言う。日本の知識人が本音を隠すテクニックを知れば、現代文の読解問題をすらすらとけるのだと言う。

(3)身分社会がいまだに続いている。

では、どんな日本語を話せばよいのか。

(1)言いたいことを言い、不要なことを言わない。
(2)敬語を使わない。
(3)1つの文を短くする。
(4)同音異義が多い漢語をできるだけ使わない。
(5)否定の否定となる言い方をしない。
(6)保留を できるだけ つけない。
(7)前に言ったことを否定するような言い方を避ける。「でも」とか「しかし」とか使わないで済むよう、言いたいことを整理する。

夫婦の会話でも、たがいに誤解しないため、上の点に気をつけて話すと良いと思っている。言いたいことをはっきり言うのが良いと思う。

共同体運動の罠に落ち込まないために

2019-11-16 22:05:40 | 思想

トーマス・マンはブルジョア教養人だから、すぐ、ナチスのいかがわしさにすぐ気づいた。しかし、同時代の一般のドイツ人にはむずかしかったのではと思う。

現在、ヒトラーやナチスへの非難は、かれらが自滅してから、悪口として書かれている。だから、それを読んで、ヒトラーやナチスが悪者だと思うことは容易だ。しかし、それは、たんに悪口を信じたというだけである。

ヒトラーやナチスの唱えた国民社会主義とは、国民共同体(Volksgemeinschaft)の実現を求める政治運動である。特権階級の廃止、ドイツ国民の平等化、ドイツ民族の一体化を唱えたのである。

ウィキペディアの英語版をみると、共産主義は2000年前にさかのぼり、貴族の特権の廃止、私的所有の廃止、平等社会の実現を唱えていたという。この古典的共産主義は、理念上、共同体運動とほとんど変わらないように私には思える。

エンゲルスが、『空想から科学へ』(新日本出版社)で、ユートピア共産主義と科学的共産主義との違いとして、主張したのは、生産手段の国有化であった。これでは、国民共同体運動と区別がつかない。

レーニンが、真の共産主義として持ち出したのは国際主義である。ほとんどの共同体運動の欠点は「排他的」になることである。たしかに、ナチスはユダヤ人の排除をはかった。「排他的」にならないことは大事な視点である。

しかし、レーニンは、同時に、プロレタリアート独裁という誤りの芽を持ち込んだ。
もっと大事な視点は、「自由」と「個人の尊重」ではないかと私は思う。

トラヴェルソが『全体主義』(平凡社新書)で指摘したように、古典的自由主義はブルジョアと貴族が主張したものだが、「分権、複数政党、公的機関、憲法による個人的権利の保障(表現の自由、信教の自由、居住地の自由など)」は、権力の集中を防ぐために、現実的に必要なのだ。

したがって、フロムが『自由からの逃走』(東京創元社)で示した視点を私は支持する。

「支配―服従」の人間関係を廃止するために、ヒトラーに服従するという思考はおかしいのである。救世主を求める思考はおかしいのである。天皇もいらないのである。

そのうえで、伝統的な共同体思想の「助け合い」「弱者への思いやり」を「自由」と「個人の尊重」と共存させないといけないと思う。