國分功一郎の『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)は、本当につまらない。医学書院の「シリーズ ケアをひらく」は面白いものが多いが、これは本当に面白くない。シリーズの他の本がもっているような、どうしても伝えたい自分の思いがない。たんに、自分の知識を、しかも他の本から得られるような知識を見せびらかしているにすぎない。
NPOでサーポートが必要な子どもに、場合によっては大人に接しているとき、生きる意欲を見出すとほっとする。
これまで発語がない子どもが、トイレに行きたい、お茶をのみたい、などと はじめて言うのを聞くと、とっても うれしくなる。生理的欲求は生きる意欲である。
私は、それを生きる意志だと思う。
うつの子が私に会いに来ないととても心配になる。死にたいと言っているからだ。来てくれれば、生きる意欲を吹きこむことができる。
意志は、また自分の置かれた環境に逆らうための一歩である。もちろん、逆らっても変えられるか どうかは わからない。
たしかに、古代ギリシアの文献や聖書を読んでも、「自由」とか「意志」とか「自由意志」とは出てこない。根底に過酷な社会があった。
秦剛平訳の『ユダヤ古代誌』(ちくま学芸文庫)の4分冊目(13巻9章)に「自由意志」という単語が出てくる。じつは、ヨセフスの原文(ギリシア語)にはそんな語は出てこない。秦剛平の勇み足であるが、考え方によっては、的を得ているとも言える。
ヨセフスの言っているのは、運命というものにたいするユダヤ人3派の考えである。ファリサイ派よれば、人間の行為の多くは運命のしわざだが、あるものは運命ではなく自分のしわざによる。エッセネ派によれば、すべてが運命により、人間によるものはない。サドカイ派によれば、運命というものはない、われわれの行為は、善であれ悪であれ、すべて自分のしわざである。
私が思うに、「運命」に逆らおうとするのが「意志」である。ニーチェの場合はさらに進んで、自分の思いにあったように真理を変えるのが「意志の力」となる。
われわれは微力である。われわれのNPO内でも話題となったのだが、「無力の学習」という現象が子どもたちの一部にみられる。学校の先生に何を言われても黙ってうつむいて、勉強も宿題もしない。時間が過ぎていくのをただただ待っているのだ。これは、何もしなくても、何もこの世に期待しなければ、生きていけると、その子は「学習」したからだ、と言う。何もしない、何も期待しない、とは、生きる意志を棄て去ることである。
昔、中動態があって、いま、中動態がなくなった、ということは、微力なわれわれが運命(環境や記憶)に抗することに、なんらかの力になるのだろうか。そうは思えない。