けさの朝日新聞の《耕論》「大嘗祭、改めて考える」は腰がひけている。明日、安倍晋三政権は27億円をかけて大嘗祭を決行するが、「大嘗祭」は宗教儀礼で国費でやってはいけないのである。
朝日新聞も、国学院大学名誉教授の岡田荘司、元宮内省掌典補の三木善明、政治学者の御厨貴の意見を聞くのではなく、宗教家、宗教学者、民俗学者、憲法学者に意見を聞くべきだった。
私の母は日蓮宗の信徒で、私の実家のウラに尾山神社があったが、元旦でも神社に賽銭をあげることをよしとしなかった。一神教のキリスト教徒なら、なおさら、そうであろうと思う。
尾山神社は明治6年に創設され、前田利家を祀ったものである。戦前は、74年以上前には、大日本帝国政府から尾山神社の職員にお金が出ていたのである。どうして、政府からお金が出ていたのか。天皇家が全国の神社を支配するというイデオロギーが戦前の日本にあり、前田利家の霊は、石やキツネや稲穂よりも高級な神様で、天皇家の祖先神の代理として、石川県のすべての神社の神を管理していたからである。
国学院は、戦前、神社の神主を教育する高等教育機関だった。朝日新聞が天皇の神格化の拠点の意見を聞いてどうするのだ。
きのうの中外日報に、宗教学者の島薗進が寄稿している。その要旨はつぎのようである。
大嘗祭に多額な費用を投じ、大規模な国家的な行事として行うことは、日本の伝統ではない。日本の民俗学を立ち上げた柳田國男の「大嘗祭ニ関スル所感」にあるように、村々にそれぞれの神様がいて祭りがおこなわれていたが、国家行事として、多数の人が参加して祭りを行うことはなかった。天照大神に天皇家の継承を報告するために大規模な国家的祭りを行うということは、日本の村々の祭りの素朴な伝統を壊すことで、好ましいことではないとするものだった。
私もそう思う。石やキツネや稲穂への素朴な自然信仰と違い、大嘗祭は、権力者であった人間を祀る儀礼である。
島薗進は、さらに、国家神道を「キリスト教を背景とする西洋の近代国家に見習いながら対抗しようと無理をし、背伸びをして形作られたものだ」と言うが、私は、キリスト教徒もそんなことはしなかった、と思っている。それよりも、ナチスの党大会に似ていると思う。
キリスト教徒にとって礼拝は個人的な祈りである。国家行事としてのお祭りなどしない。
国家的行事としてのお祭りとなると、王が生き神様であった3000年前のバビロニアに時代にさかのぼってしまう。近代国家ではありえない話だ。明治には頭のイカレタ人々が日本の政府のなかにいたのだ。
島薗進は、日本での天照大神の国家的な宗教儀式は、明治時代に始まった、と言う。じっさい、奈良時代・平安時代では、国家の安泰を願うのは仏教であり、国家事業として大仏が作られた。武士たちと戦った後醍醐天皇は、頭に中国の皇帝が被る帽子をかぶり、密教(仏教の一派)の法具を手にしている。すなわち、天皇家は仏教に頼っていたのであって、白装束を着て神主の真似をすることなんて、なかったのである。
大嘗祭は日本の伝統ではなく、明治、大正、昭和と作り上げられた偽装の儀礼である。
74年前にアメリカとの戦争で負けた日本国民は、神聖天皇制を拒否し、象徴天皇制に同意したはずである。少なくとも、日本国憲法はそうなっている。「伝統」という名目で、なし崩し的な憲法違反を許してはいけない。