猫じじいのブログ

子どもたちや若者や弱者のために役立てばと、人権、思想、宗教、政治、教育、科学、精神医学について、自分の考えを述べます。

軍事優先の考え方を批判せよ、保坂正康の『あの戦争は何だったのか』

2022-05-25 23:30:01 | 戦争を考える

『あの戦争は何だったのか』(新潮新書)なのかで、保坂正康は軍人が無謀な戦争を80年前にアメリカに行なったと考えている。また、彼は、軍人が非常なエリートであったという。私には、彼が、軍人がエリートであることをなぜ指摘するのか、わからない。もしかしたら、学校の成績が良いだけでは、正しい判断ができない、と言いたいのかもしれない。

彼のもう一つの指摘は、中国との戦争で行き詰っていたのは陸軍で、中国を軍事支援をしていたアメリカと戦う理由は海軍にはないはずなのに、アメリカと戦うことを最も主張したのは海軍であることである。どうも、彼は、薩長と長州の手柄争いを海軍と陸軍とが引き継ぎ、海軍軍令部が天皇や国民の喝さいを浴びたいと考えて、アメリカとの開戦を主張したと言っているように思える。

とにかく、私を含め、私より上の年代はすべての悪は軍国主義からくると考える。

軍人は、海軍も陸軍もクーデータを起こしている。暴力による恐怖で意見を通そうとしている。昭和維新である。

陸軍の2.26事件では、内大臣、蔵相、(陸軍)教育総監は「3人とも機関銃で撃たれた後、滅多切りにされ、肉片が飛び散っていた」というひどいものだった。天皇に与えた「肉体的恐怖は想像を絶していた」と保坂は言う。

保坂は、軍人の間には「大善と小善」という考えがあって、「小善」は天皇の指示に忠実に従うことで、「大善」は天皇の御心を思いはかって「一歩前に出て」お仕えすることとしていたと言う。もちろん、軍人は「大善」を良しとする。「一歩前に出て」とはずいぶん恣意的な言葉である。

保坂は、日米戦争では、海軍と陸軍が互いに本当の戦果を隠していて、正しい戦術をも立てることができなかった、と言う。

明治憲法では、陸軍、海軍をコントロールできるものは、天皇しか いなかった。陸軍や海軍は議会や内閣に責任を持たないのである。軍隊とは、他国と紛争を武力で解決をするだけでなく、国民を暴力で抑え込む装置である。君主制をとっていれば、天皇が陸軍、海軍を直接指揮するのは当然である。君主制が悪いのである。

すると、「軍国主義」が悪いとすれば、君主制から国民主権の民主制に移り、国民が軍人をコントロールすればよいということになる。

しかし、平和憲法ともいわれる現行憲法にもかかわらず、軍備倍増、敵基地攻撃能力、同盟国との共同戦闘態勢、核共有という声が出てくるのを見ると、軍人がいるから戦争が起きるとだけ言っているのでは、不十分な事態を迎えていると思う。軍事優先の考え方こそが「軍国主義」ではないか。ここに加藤陽子の『それでも日本人は、「戦争」を選んだ』(新潮文庫)の視点が必要になる。日本に外交がないのだ。

中国や北朝鮮が日本を攻めてくるというのは、被害妄想である。自衛隊の一組織である防衛研究所の所員が被害妄想を煽っているのは、問題である。岸田政権はそれを打ち消すべきではないか。

それなのに、岸田政権はアメリカの中国敵視政策にランランのノリで従っている。アメリカに対する劣等感があるのではないか。現在、日本政府の中で、戦争を回避するための組織はどこが担っているのか。本来は外務省だと思うが、安倍政権でそれが骨抜きになったのではないか。

反戦という旗を日本にもう一度掲げる必要がある。戦争で「紛争」を解決するのはやめるべきである。反戦をいうことは恥ずかしいことではない。

[補遺、5月26日]

加藤陽子の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫)を借りてきて読むと、陸軍と海軍との争いは強調されていず、反対に、2章では、陸軍と海軍とが協調が日露戦争の勝利に導いたと書いている。


あの戦争はなんだったのか、それでも、日本人は「戦争」を選んだ

2022-05-24 22:39:09 | 戦争を考える

5日前から保坂正康の『あの戦争は何だったのか』(新潮新書)を読んでいる。あの戦争とは、1941年のアメリカと日本との戦争である。真珠湾を奇襲攻撃せざるを得なかった戦争である。

読んで保坂の振り返りと、加藤陽子の振り返りとに違いがあるのに気づいた。もう一度、加藤の『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(新潮文庫)、『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』(朝日出版社)を読んで、比較しないといけないと思う。

保坂と加藤の世代の違いが、アメリカと日本との戦争の受け止め方に違いを引き起こしているように思える。文章においても、保坂が戦前からの日本語を使っており、加藤は英書を多数読んだ人特有の、粗い言明を細かい注釈で補っていく文型を使っている。私自身も、加藤のように、ついつい、英語を日本語に翻訳したような文章を書いてしまうことがある。

保坂は「あの戦争」の誤りを「軍国主義」に帰す。ただ、彼の言う「軍国主義」とは何かは私にはわかりにくい。彼は「軍部」を「軍の政策や戦略を司る中枢部」とし、つぎのように言いきる。

<「軍国主義」とは、そうした中枢部が発する命令、彼らの時代認識からくる戦略がどういったものだったか、それを指して定義するもの>

わかりにくい定義である。「命令」と「戦略」とが同格で、「どういったものだったか、それを指して定義」では、本書を注意深く読んで自分で考えろと言っているのと変わらない。

加藤は、軍部が日本とアメリカの戦力の差、社会の体力の差を分かっておりながら、日本が戦争に進んでいったことを、なぜかと分析する。『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』のタイトルがほのめかすように、「軍国主義」というより、「国体」とも言われる明治以降の日本の社会体制、あるいは、明治憲法(大日本帝国憲法)に象徴される国の理念が、避けられる戦争を行った、と加藤は言う。

「軍国主義」が悪いという保坂の歴史のとらえ方は、半藤一利や司馬遼太郎と通じるものがある。その「軍国主義」を「尊王攘夷」と理解すれば、加藤との接点を見いだせると思う。加藤は、外交交渉で解決できるのに、軍人以外の日本人もあの戦争を選んだと言いたいので、「それでも日本人は」と言っているのである。

「軍人以外の日本人も」という視点は重要で、「軍国主義」ではない現在の日本政府も戦争を選ぶ可能性があると警告していることになる。

「尊王攘夷」は劣等感に満ちた被害者意識である。明治以降の日本政府は、「和魂洋才」と言いながら卑屈に欧米列強の文化を取り入れた。「尊王」という非合理性を含んだまま「富国強兵」路線に走ったのである。

そして、1937年に始まった中国との戦争に勝てないのは、中国の背後にアメリカやイギリスやロシアの軍事援助があるからだと考え、アメリカと戦わざるを得ないという自縛に日本政府が陥ったのである。

劣等感に満ちた被害者意識は形を変えて、現在も引き継いでいる。自民党はアメリカに卑屈に従ってきたにもかかわらず、アメリカの占領軍に押しつけられた「日本国憲法」を廃棄して「自主憲法制定」を言い続けている。自衛隊を憲法に明記して何をしたいのかがない。

保坂は、真珠湾を奇襲攻撃して、その戦いに勝利できたが、その後どうしたいのか、なぜそうするのかがない、と言う。保坂は、これを「軍部」に戦略がないと言う。まさに、いまのロシアのようであったのである。

劣等感に満ちた被害者意識は、愛国主義の形で、アメリカの命ずるままにアメリカに敵対する国に向けられていく。それだけでなく、本来友好国であるべき、韓国までに敵意をふくらます。合理性がまったくないのだ。合理性がなければ、戦略も当然ない。外交交渉ができるはずがない。

憲法を改正し、軍備を増強し、どうなりたいのか、自民党や日本維新の会、国民民主党になんの考えもないのである。「それでも日本人は戦争を選んだ」と100年後に言われないように、いま生きている日本人も自省しないといけない。


何のために日本の軍事費の倍増する必要があるのか

2022-05-23 22:37:46 | 戦争を考える

ロシア軍のウクライナ侵攻をみて、日本の軍事費の倍増に賛成する人が増えたのではないか、と私は懸念する。

きょう、岸田文雄首相はアメリカ大統領のバイデンに大幅な軍事費の増額を約束した。そのバイデンは、記者会見で、中国が台湾に攻撃をかけたとき、アメリカは台湾側に立って、参戦すると答えた。

いっぽう、東国原英夫は、きょうのTBSの『ゴゴスマ』で、「防衛費を増額する話がサラッと報道されてるけれど、防衛費がほぼ倍増するということはあと5兆6兆必要でどこから持ってくるのか。多分増税や国債、社会保障費を削るなどになるから、国民の皆さんも頭に入れといてください」というようなことを言っていた。これは冷静な発言だと思う。

自民党や日本の維新の会が防衛費をGDPの2%にというが、日本政府の支出総額はGDPの37%である。防衛費が国の予算の5.4%を占めることになる。決して少額ではない。

「防衛費」というが、抑止力という名の敵国攻撃を想定した軍事費である。日本が軍事大国の道を選択すると世界に約束したことになる。

自衛隊(軍隊)は政府のコントロールのもとに置かれている限り、軍人独裁国家ではないが、軍備で他国を威嚇する点では、軍事国家である。

戦争というのは、他国が侵攻してくるのではという疑心暗鬼から始まる。ロシア軍のウクライナ侵攻も、アメリカ軍がウクライナにはいって軍事訓練をしているという事実から始まった。ウクライナがロシアに攻め入るというプーチンの危機意識は妄想だろうが、ウクライナがアメリカのもとに戦争の訓練をしていたまでは事実である。

北朝鮮、中国はアメリカが攻めてくるのではという妄想のもとに、軍事国家の道を歩んでいる。日本までが、「安全保障」という妄想のもとに、軍事国家の道を歩めば、想定敵国も軍事費をより増強するだろう。結局、各国は、戦争に行き着くまで軍事費を増強することになる。経済合理性からも、人類の幸福と繁栄から明らかに踏み外している。

愚かしい、愚かしい、愚かしい。


本当に中国や北朝鮮が日本に攻めてくるのか、被害妄想ではないか

2022-05-22 23:34:41 | 戦争を考える

ここしばらく、私は、ブルガリアの歴史、ポーランドの歴史、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の歴史、ロシア帝国の歴史を読んでいる。彼らは本当に絶えず戦争をしている。どの国も、いつも相手が攻めてくると考えている。被害者意識のかたまりである。それでいて、チャンスがあれば他国に攻め込む。

自民党や維新の会は、北朝鮮や中国が日本に攻めてくるという。しかし、どうして、攻めてくると思うのか、その根拠を、私は聞いたことはない。

北朝鮮はアメリカにおびえて、国民と国土を守るため、貧乏なのに核やミサイル開発を行っている。貧乏だから、アメリカを壊滅するほどのミサイルや核爆弾を、たぶん、永久に作れない。中国は、北朝鮮ほど貧乏ではない。しかし、中国の国民は、今の生活を放棄して、戦時体制に入ることを望んでいない。自民党や維新の会は、なぜ、彼らが日本に攻めてくると思うのか。中国に、アメリカを占領しなければならない理由があるだろうか。単にアメリカが攻めてくるかもしれない、という恐怖心から無理をして軍備を強化しているのではないか。

多くの人はヒトラーが頭がオカシイと思っている。しかし、ドイツ人は、今のポランド領の北海がわに、国をもっていた。ドイツ騎士団の国があったのである。それがプロセイン(プロシア)公国になり、約百年前の第1世界大戦で、ドイツが負けることで、プロセインは小さくなり、ポーランドのなかのドイツの飛び地になった。大ドイツ主義のヒトラーは、おっせかいにも、ドイツ人よ、スラブ人から東の地を取り戻そう、と訴えたわけだ。かわいそうなことに、第2次世界大戦でドイツはまた負けたので、もっと狭い国土にドイツ人は押し込まれている。幸いなことに、ドイツ人は奪われた国土を取り返そうとしてはいない。現状の国土で満足している。

日本は第2次世界大戦で、明治以降に武力で奪った土地をすべて失った。だから、日本に土地を返してくれと中国や北朝鮮や韓国や台湾から責められることもない。ヨーロッパのことを考えると、こんな幸せなことはないと思う。さらに良いことに、日本は石油や貴重な鉱物資源があるわけでもない。アフリカ諸国をみていると、石油や鉱物資源をめぐって内戦が絶えない。

日本は、丸腰で堂々としていればよい。他国に被害妄想を膨らますような軍備をもたないことがだいじだ。憲法第9条を改正なんかして、軍事大国になろうとしていると疑われないようにすべきである。また、核武装をすると疑われるような、使用済み核燃料の再処理をすべきではない。

こういうことが、自民党や日本維新の会や国民民主党の政治家はどうしてわからないのだろうか。彼らの頭がオカシイと思われても仕方がない。


ロシア軍のウクライナ侵攻を受けて反核と反原発を

2022-05-21 23:56:31 | 原発を考える

(Чорнобильська原発)

毎日毎日、気持ちを暗くするニュースがメディアにあふれている。自然災害は人間の意思では防げない。2次被害を小さくするよう準備するしかない。しかし、人間が引き起こす戦争や事故は防がないといけない。

戦争を防ぐには、日本だけの努力でどこまでできるかわからない。国際的な連携を行うとともに、自然災害と同じく防げる2次被害を抑える準備も必要だろう。

NATOは軍事的同盟であり、「民主主義の価値」を守るというドグマをもち、敵国を想定して戦争をする準備に励んでいる。第1次世界も第2次世界大戦も国と国との軍事同盟があるがゆえに、世界的規模の戦争になった。国と国の戦争は防ぐのは軍事同盟だけではだめで、「反戦」という大衆の運動が必要である。日本人がウクライナに同情するのは理解できるが、「反戦」という視点が弱いのが、とても気になる。

さらにロシア軍のウクラナイな侵攻で明らかになったのは、核兵器は地上戦の抑止力にならないということだ。

それだけでなく、原発が攻撃の対象となる可能性が、今回浮かび上がった。

あらためて、反核と反原発の連携がだいじだと思う。

きのうの朝日新聞『〈耕論〉ターゲットになった原発』で、小林祐喜、山形浩史、小山堅の3人のインタビュー記事を載せている。小林、山形は、戦争で原発が武力攻撃の対象になる可能性を認めている。日本エネルギー経済研究所の小山だけが、原発が武力攻撃の対象となる可能性を検討せず、「日米同盟を強固にし、いかに抑止力を確保するかに帰着」と議論を逃げている。

笹川平和財団の小林は、主要国が集まって原発への攻撃や威嚇のリスクを禁ずるルールを整備すると主張する。しかし、主要国が集まってルールに合意できるか、また、合意できたとしてもルールを破る国がでてくるのではないか。ルールに従った戦争とは、どだい無理なのではないか。戦争が起きれば、勝つために、ルール違反が起きる可能性は高い、と思う。

山形浩史は、武力攻撃の前に原発を停止すれば被害の拡大が防げるから、停止する迅速な法的手順と、誤った予測で停止した場合の補償を、事前に決めていく必要があるという。

しかし、もっと簡単な方法は、原発を廃棄することではないか。日本社会は、福島第1原発事故をうけて、一度、すべての原発を止めている。止めてもやっていけるのだ。

原発廃棄の期限を法律で決めないと、いつまでも、再生エネルギーの発電が普及しない。

13年前、大学の工学部での講義のために太陽光発電技術の現状を調べた。そのとき、最先端の技術では太陽光のエネルギーの44パーセントが電力に変換できた。植物を使った場合、すなわち、バイオ発電の場合、太陽光エネルギーの12パーセントが電力に変換されると言われている。したがって、20%ていどの変換率で安い太陽光発電パネルを大量生産すれば、太陽光発電は充分実用化できるということがわかった。

残念ながら、安い太陽光発電パネルを大量生産したのは、福島第1原発事故を起こした日本ではなく、中国であった。通産省は、どうして、こうも誤った産業政策をとるのか、理解しがたい。日本はビジネスチャンスを失った。

風力発電でさえ、ヨーロッパの技術に追いつける見込みが今のところない。

さらに、電力会社は政府に逆らわなければ地域独占が保障されるから、太陽光発電や風力発電などを使った場合の電力の需要供給バランスの制御技術の確立をさぼっている。電力は供給と需要のバランスを秒単位で守らないといけない。

法律で原発廃棄の目標を決めないといつまでたっても、電力を再生エネルギーに転換できない。

二酸化炭素削減のために、原発に頼るというのはトンデモナイ選択である。二酸化炭素二酸化炭素は植物の生長のために必要である。温室栽培では、成長を速めるために、わざわざ、二酸化炭素を発生させている。火力発電から発生する二酸化炭素の有効利用を、今後、考えていくことができる。

それに対し、原発で生じる放射性物質を有効に利用するサイクルがない。小規模原発を作ろうが、高速炉を開発しようが、原発は核分裂連鎖反応を利用している。重い核ほど中性子の割合が多いので、核が分裂すると放射性物質が生産されることは、避けることができない。このことを無視して原発を稼働し続けるのは、放射性物質の保管で土地が占有され続けることになる。

原発を稼働しつづけるのは、合理的でも現実的でもない。