読者の方々に質問です(僕は頭が悪いので、教えて頂ければ幸いです)。
【Ⅰ】
マスクは、なぜ必要なのですか?
【Ⅱ】
「沖縄に対する日本」
「台湾・チベット・ウイグルに対する中国」
の違いを教えて下さい。
*ブログ記事の冒頭に、この質問を繰り返し続けます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前回のブログに、次の二か所の間違いがありました(既に訂正済み)。
最初のタイトル
誤:アパートの裏山- Nature of Misty Hill青梅市霞丘陵の自然2021.5.15
正:アパートの裏山- Nature of Misty Hill青梅市霞丘陵の自然2021.5.14
末尾の文章
誤:*僕の記事の解説内容は、いわゆる
正:*僕の記事の解説内容は、いわゆる「教科書」に書かれている内容とは全く異なるので、ご注意ください。
僕は、パソコンの操作方法を全く知らないので、毎回あや子さんに文章や写真を送信してアップして貰っています。
文字の大きさを揃え、太字を無くすなど、送信時に細心の注意を払って、きちんと整えてから送信しています。しかし、実際に送信されたものは、(ぼくの“うっかりミス”ということも度々ありますが、笑)、しばしば届いた時点で、文字の大きさや字体がバラバラだったり、色が違ったりしていることがあるようです。今回も、画面の上で整え直してから送信のクリックをしたのですが、実際は一つ前に書いて削除したはずのものが行ってしまっているようです。
僕がパソコン・インターネットを使っているのは、次の理由によります(ジョージが「パソコンなど使うの辞めろ」というのですが、その意見には実に同意できるのですけれど、そういうわけにもいかない事情があるのです)。
⓵僕は、手で字を書くことが(ほとんど)出来ません。指の骨の構造に因るのだと思うのですが、(滅茶滅茶に汚い字で)数行書くのがやっとです。手紙の宛名とかも、非常に苦労して書いています。その点、パソコンは助かります。
以下2つは、僕が貧乏であるので仕方なく、、、、金持ちだったらしません。
⓶写真の整理。デジタルの絶対的強みは、ポジフィルム使用時より圧倒的に安上がりであること。その一点でデジタルのカメラ・フィルムを利用しているのです。もし十分な資金があるならば、旧来のカメラとフィルムを使用したいです。
⓷調べもの。これも十分な資金があれば、国会図書館や各種研究機関に行って調べます。しかし(僕からすれば)とんでもない電車賃がかかってしまう。その点、インターネットの情報は、多くが無料でチェックすることが可能です。
以上は、パソコン・インターネット利用のメリットですね。
でも、よく考えたなら、デメリットの方が圧倒的に大きいのではないかと。
その例は、余りにも多すぎて、とても書き切れない(「あや子版」に綴っている記事の内容は結局その本質的な問題に収斂していくのだと思います)。
一言で表わせば、、、、例えば、知識とは。
学習、教育の賜物。他から与えられ、受け入れ、昇華していく。
ゼロから、自分で対象に対峙し、解析し、認知し、構築していく。
その組み合わせだと思うのですが、両者は相いれないことが多いですね。
1+1がなぜ2になるのか、最初から考えていては、先に進むことが出来ません。「従う」ということも、「成長」にとっては不可欠な事です。
しかし、インターネットやパソコンの世界は、全てが「従う」「委ねる」という前提でのみ成り立っています。
自分で字を書く場合は、書くべき文字を最初から書きます。しかしパソコンでは、(多くの場合)最初は別の文字が示される(よく分からないけれど最大公約数的に使用頻度の高い文字が基準なのかな)。
勝手に文字が直されたりします。例えば、Aporia hippiaは、常にAporia Hippie(種小名の頭が大文字に、末尾のaがeに)と書き直されてしまう。もとに戻すのに毎回苦労します。
だいたい、僕は海苔を巻いたおにぎりが上手く食べられない人間なので(笑)。書かれてある手順に従って、というのが出来ないんですね。それもどうかとは思いますが。
ちょっと学習すれば済むことなんですけれど、なかなかその気にならない。むろん、バカなので、その気になっても、ちゃんと学習できるとは限りませんが(実際何度かチャレンジして玉砕している)。
別に、もっとシンプルな海苔の巻き方で良くはないですか? 「直接巻くと海苔が湿るから」というのはもっともな意見ではありますが、僕は食べれれば*いいので。まあ、日本人はみんな贅沢なので、仕様がないですが。
あと、トイレの紙のセッティングも。これは書き出すと長くなるので、またの機会に(最初の頃の「現代ビジネス」にも何度か書いています)。
*附記:「食べれれば」と書くと「間違い青線」が示されます。「食べられれば」が正解らしいのですが、それだと僕が「食べる」のではなく、怪獣か何かに僕が「食べられて」しまうことになる。「食べることが出来れば」と正確に表記すれば良いのでしょうが、、、、、。「ら抜き」という文法上の問題ではなく、多様性(一種の方言)や柔軟性の観点から見ることは出来ないのでしょうか?
明治30年代だったと思うのですが、上田万年博士が中心になって「標準語設定」の国家的改革を始めたのですね。万年は斎藤緑雨の竹馬の友です。正反対の生き方をし、価値観を有しました。「近代的最高学府に学びそのトップに君臨した」万年と、「江戸戯作の精神を継承し、体系的学問を否定し、貧困の極のまま野垂れ死んだ」緑雨(でも二人は終生仲が良かった)。緑雨は万年が成そうとした「標準語改革」に強い危機感を示し、考え直すよう訴えた。しかし、世間は当然前者に従います。「近代」に向かってひた走ります。今も変わっていません。