文における文節は日本語にふさわしい単位であった。それが橋本文法の功罪となるのは伝統文法と教育文法の研究者にその理解がないからであった。国語教育では学校文法が定めた付属語の呪縛に遭い、そこから教師は抜け出せないだけでなく、文の成分要素としての、文節の意味を取り違えてしまって連文節の分析に発想を得ない。また日本語教育では文法論の形態分析によって、形態文法が語基と接辞に分けるのをその音韻分析のままに、日本語の語の単位を見だせないままとなっている。そのどちらの立場にあるにせよ、橋本文法の文節を無用に考えてしまっている。国語と言えば伝統にあって古いもの、日本語と言えば外国語の形態に展開する統語を、文法論に持ちえない。古典語文法で国語が言う処の取り立ての助詞の文法意義の拡大にあってそれを文の文節に、言ってみれば、文章の連文節に捉えることがない。 . . . 本文を読む
2016年は1946年から70年である。わたしごとで生を得て迎える年の数である。これを機会に思うことは昭和世代と平成世代をまたいだこと、その時代を生きていることである。日本は戦争の時代にあった昭和の前半期である。60有余年の3分の一であったが、前後期に分けると、それを敗戦と受け継ぎ昭和の64年のうちに、戦後とした43年を生きて、平成を27年、過ごした。敗戦による経済復興は経済白書に戦後は終わったとしての宣言があり、昭和後半期はそこから始まったとみることができる。そうすると、1945年の昭和前半期はもう10年を経て後半期へと移ることになる。生きている時代をわけることは、敗戦を機にした、昭和の時代が1956年をもって前半と後半に分かれる。昭和31年である。歴史の画期を何に見るか、歴史事実としての記録のとり方であるが、この70年を昭和前半、それは戦争を挟む時代、そして昭和後半、それは日本の経済立国による時期、そして平成へと続く半世紀である。
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四柱推命は、その人なりの心のクセをある程度読みとり、
そのクセに従って行動した場合に起こりやすい事柄を
ある程度予測することができます。
とくに自分本位に行動した場合に陥るパターンの予測
などは、かなりピシャリと当たります。
でも、それを逆手にとって、占いの予測を
「良い意味で当たらない」ように
自分の行動をコントロールすることに、
占いの本当のレーゾンデートル(存在理由)があるのです。
私たちが運命学の知見を活用する余地があるとすれば、
まさにそこです。
そしてそれ以上でもそれ以下でもありません。
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