川柳・ボートっていいね!北海道散歩

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2009年04月26日 | 川柳

              私と川柳     8月号 川柳くしろ 寄稿より

 

 

  3・11以前と以後では、日本のあらゆる様相が一変しました。

 

 今まで感じていた自己表現の手段でもあり「声なき声」の代弁者としての生き甲斐でもあったはずの川柳とは一体何であったのか、大津波の、あの大惨事の前では傍観者の一人でしかない私にとってこれからどのように生きるべきかとの難題を今もって消化できずにいるというのが本音であります。

 

 大間原発・六ヶ所村核燃料サイクルにおけるプルトニウムの計り知れない危険性に対峙し、その原発のメカニズムの危うさを微力ながらも訴えてきた私でもあります。

 この日本の特に原発危機管理のずさんさ。

その問題の根底にあるのは利権をめぐる政局の稚拙さ、無責任さだけが国民には際立って良く見えています。

 日本って実は世界に誇る数々の分野の優秀さが突出しているにもかかわらず、リスク管理において一国のリーダーのもとでは、かくも、傷口を大きく広げ続けるものかと、地団駄踏んでいる。

 

 そこで、ちょっと心理学理論の交流分析という糸口から「私と川柳」というテーマに流れを進めようと思います。

 今、日本の政治もマスコミもそれを取り巻く様々なゴタゴタを心理学の分析で大雑把に一言で表現するなら「アダルトチルドレン」という「大人になれないこども」という人間基層から成り立っているとも分析できる。

 

アメリカでは実に九十パーセント。日本でも六十から七十パーセントに移行していると問題視されています。

テレビ番組などを見ても、その傾向は著しいものがありますね。

 

 人間というのは、誰でも「大人・こども・順応性・父性・母性・抵抗反抗」という六つのPACと呼ばれる分析要素があります。     

世界のあらゆる分野の大半を動かしているのは、各分野で選び抜かれた優秀な人材であるはずが、組織となるとなぜに、このような暴力と、稚拙さで覆われているのか??

 

 ここからは辛口にになるかも知れません。

 

アダルトチルドレンの特性というのは、「暴力的、短絡的、楽観的、無責任、自己中心的」という性格の要素を内包しています。

 

ハーバード大学や東大を卒業しても、個人の脳細胞遺伝子を基本に生育的環境を積み重ねながら実は、対人的なコミュニケーションという、大人になるためのあらゆる波風体験が実は限定的に、希薄に育ったが故の、人間と人間の境涯にある一定のライン(間隔)が保てない人格の集団となって社会を形成しているのが戦中派とは違う現実社会であります。

 

 日本人は実に百いくつかの「私」と呼ぶ代名詞を言語に持っている人種です。

 

養老孟司氏は「無思想のすすめ」という著書の中で「私」という確固たる「I」が不在している傾向がこの日本人の性格を表しているのではないかと、提言されております。

 

 「私があるようで、実は私が不在している傾向が高い日本人」と、氏は言いたいのかも知れません。

 

 また、心理学では自己に内在する「三人の自分という存在」も提示してあります。

 

「天然の自分・そうではいけない、こうしなければいけないと自己コントロールしている自分・他者との関係において自己演技している自分」その三人の自分と一生付き合う人生の醍醐味が「生きる」というあらゆる所作に表現されています。

 

 「私と川柳」実は、

 

私の脳みそを覆う自分の中に存在する三人との葛藤が、川柳という世界の中で人生の集大成という

 

    「幻の砦」を作り上げているのかなーと今、感じています。

 

コメント
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