川柳・ボートっていいね!北海道散歩

川柳・政治・時事・エッセイ

小樽漕艇協会90周年によせて

2010年11月02日 | 川柳

           「あんた・・・おいで!」

      松原監督、性別は一応女性(小樽RC時代)

福島より小樽漕艇協会の式典に出よ!と、電話の向こうで軽い檄が飛ぶ。。。

「この間も小樽に行ったし、同期会も断ったし、今回は出席できないから、100周年のときは、なるべく生きているように努力するから・・・今回はいーかない!」私(80周年には出席した。)

                http://www.otarurowing.com/

「100周年かあ・・・。。。私はちょっと微妙なときだね!」監督

「ところで、乙坂先生のことなんだけれど・・・先生って、潮稜高校時代松原さんが3年のとき全国3位になって、それから樽商に転勤になって、女子ボート部を結成2年で全国優勝させているけれど、今ブログでボートの事をあれこれ書こうと思っているんだけれど・・・松原さんが3位になったのは国体?インターハイ?」私

「あれー・・・どっちだったけ??」松原

「あのねー安達の温二さんって、シングルスカルで日本で始めてオリンピックに出たんだっけ?歳はいくつだったっけ?潮稜だったよね?」私

「温二さんオリンピック出たっけ?潮稜でなくて千秋(その後樽工)だよ。東レ滋賀(実業団ではかなり長い間日本一の座を守り続けた)で、エイトを漕いで、世界選手権にシェルフォアで出場して、その後シングルスカルで世界選手権に行ったと思ったけれど・・・ああーー忘れたナー私と同い年だよ!・・・今度、資料送るわ!」松原

  記憶のまま思い込みで書いていくと、大変な事になるのでここは、確実性をもってボートの事を書くことにするに限る。

小樽90周年の漕艇協会の歴史は過去にさかのぼるごとに、小樽潮稜・千秋高校を初めとした全国一を何度も取り続けた歴史がある。

 小林多喜二が描いた「蟹工船」の中でも描かれている「小樽製罐」の船着き場の一角でもあった小樽艇庫に来られる諸先輩は皆、それぞれのチームで「日本一」の経験をした方ばかりでありました。

全国で何連勝したとか・・・近衛首相の秘書をされてその後、日本道路公団の総裁をなさった方が、近衛首相が自殺されたとき自分を見つめなおす為に小樽に来られ、4・5年指導していただいたとか・・・いろいろな伝説を聞きながらボート生活を送らせていただきました。

小樽艇庫に集まった、小樽工業高校・小樽商業高校・小樽潮稜高校・小樽桜陽高校・小樽商大は毎日この狭い艇庫で、練習に明け暮れた。

「日本一になる」「日本一になれ!」は、環境的には・・・小樽ボート界においてはフツーのことであったように思います。

小樽漕艇協会の諸先輩たちも、大学・実業団・マスターズと皆、日本一経験者ばかり。

 だから、日本で初めて、ボート競技のシングルスカルの世界選手権初出場が「安達温二さん」で、その方の功績をここにしっかり記録しておきたかった。

      シェルエイトも同期で、樽工の原嘉弘君も世界選手権出場を果たした。

    今、日本勢も軽量級で世界上位の記録を残せるようになってきた。

           その下地に「東レ滋賀」の存在は欠かせない。

そして、当時ボートを志す私たちにとっては、「東レ滋賀」のチームは、あこがれの指針でもあった。

日本ボート界が世界に挑戦したフロンテイアの選手二人が、小樽出身からである。

昨年安達さんが国体観戦に行かれた折、一緒に昼食を共にしたMさんから電話があり「今、温二さんに代わるからね。。。」と、36年ぶりに挨拶を交わした。

いい加減、こなれた古希に近いこのおばさんが「お久しぶりです・・・うんぬん・・」と語りかけると、かくしゃくとしたバリバリの硬派な声が耳元に飛んできた。

         昔は、あったかーい・・・やわらかーい感じの方であった。

歳月が人を大きくさせる。はたまた社会の波を責任の鎖によって乗り越えてこられた「大いなる威厳」を耳元に感じた。

       今も、東大や各競技会で招待を受けて、勝利し続けておられる。

       この私などは、小樽の諸先輩から見れば・・・鼻くそ!である。。。

        その鼻くそであったとしても、まだ、存在は少しはあるというもの。

         乙坂先生も小樽漕艇協会90周年に出席されるだろうか。。。

          本当に素晴らしい・・・諸先輩にお世話になり続けている。

     80周年のときは、小樽RCを代表して謝辞を述べさせていただいた。

 小樽RCも、高校・実業団全国一の経験を持つ、旧姓鎌田美紀子が昨年大腸がんで亡くなられた。

             北海道ボート界の女子の伝説を作った。

     人格高潔にして我々の模範と規範に生きた人生であったと思う。

私以外の漕友たちが彼女の命があといくばくも無いと知り、病院へ駆けつけその仲間の一人が私に携帯で彼女の容態を告げている最中、漕友が円陣になって励ましているときに永遠の眠りについた。

         私たちを「待っていたんだねー・・・鎌やん!!」

辛い抗がん剤投与を続けながら・・・「ゆっちゃん!ガンなんかには負けないよ!」と言っていたのは・・・自分へのエールだったのだろう。

あなたがいたから・・・私はすばらしいボート生活を送ることができました。

           書かねばならぬ・・・この女性の内面を。

 

 

コメント
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