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徳川光圀の話あれこれ(19)

2024-12-27 21:43:12 | 水戸

 

 大日本史編纂のために徳川光圀によって集められた学者は30人余もいて、議論百出で仕事が進まなかったそうです。光圀は総裁を置くことにして、入札(いれふだ)という投票による選出をおこなったそうです。光圀も投票し、人見又左衛門(懋斎(ぼうさい))が全票で選ばれて、初代彰考館総裁になったそうです。入札はこれ1回だけだったそうですが、学者同士の選挙はたいへん珍しいことだったようです。ただし、当時の常識からして、人見が自身に票を入れたのかという、逸話に対する疑問はあるようです。

 

 光圀は快風丸という蝦夷探検の大船を送り出したそうです。その航海の3回目に、蝦夷の松前藩へ、松や梅などを贈ったそうですが、その返礼に松前藩からは黒百合や島梟(しまふくろう)の他に、丹頂鶴2羽があったそうです。その丹頂鶴を光圀は西山荘で放したそうですが、鶴は光圀になついたそうです。この鶴を農民が殺してしまったそうですが、その農民を手討ちしなかったという逸話もあるそうです。盆栽で松前藩に贈った松は、その1本が地植えされて、大正12年まで長らえたそうです。写真は水戸市立博物館で見た、復元された快風丸の模型です。

 

 光圀の父・頼房の2代前の水戸藩主は、甲斐武田氏の跡を継いだ家康5男の武田信吉(のぶよし 家康側室である母が、武田氏家臣の娘)だったそうですが、病弱で21歳で死去したそうです。信吉の母(於都摩 妙真院)の墓が分からなくなっていたので、光圀は調べて、現・松戸市の本土寺にあることをみつけ、貞享1年(1684)に碑を建てて祭祀をおこなったそうです。

 

 元禄3年(1690)に隠居して12月14日に水戸に戻った光圀は、正月を現・日立市大和田町にあった鄕士・大内勘衛門の宅に行って正月を過ごし、1月中旬まで滞在したそうです。そしてその後に、隠居場である西山荘に移ったそうです。政治の世界と決別したということの意思表示だったのだろうといわれるようです。

 

 現・茨城町の小幡にあった千貫桜を見ようと、雨の中、かごも使わずに笠をかぶってむかい、その木の下で宴を張り、歌や詩をつくって日を過ごしたそうです。その時のうたは、「春風も 心してふけ ち(散)るはう(憂)し さ(咲)かぬはつらし 花の木の本」だそうです。西山荘から小幡までは38kmあるそうです。

徳川光圀の話あれこれ(18)

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