徳川斉昭7回忌の手向(たむ)けに西野宣命らが編集した、景山詠草という歌集があるそうです。景山は斉昭の字(あざな)だそうです。その中に恋部があるので少しご紹介します。
斉昭は37人の子供を持ったそうですが、一方、烈公と諡(おくりな)されたように激しい気性の人だったようです。小倉百人一首は恋歌が多くて風教に益がないと、明倫歌かるたをつくったという人でもあったそうです。昔から和歌は想像で書かれたものも多いようですが、斉昭の場合、実事に即して気持を吐露している場合が多いような気もします。恋においても普通の人を超える数多くの体験をもっていたのでしょうから、案外実感が入っているのかもしれません。面白いなとは思いましたが、歌のできぐあいはどうなのでしょう。写真は、水戸市立博物館で見た、嘉永4年版大日本史100冊目末尾の跋文にある斉昭の名前です。
忍恋
石の上 ふるき軒端(のきば)の 忍草(しのぶぐさ) しのひて(忍びて)おもふ 我そ(ぞ)久しき
忍ぶ草のように私は忍んで長く人を想っているといったことなのでしょう。
逢恋
もゝなりに いね(寝)て思へハ(ば) 沫雪(あわゆき)の とくるもうれし 妹か(いもが)下ひも
想って数多く床を同じにしたが、沫雪のようにとけるあなたの下着のひもはうれしいものだといったところでしょう。
不逢恋
我おもふ 心のまゝに 逢もせハ(ば) こひ(恋)を苦しき 物とし(知)らめや
思いのままに会えば恋が苦しいものであることを知らなかったろうということでしょう。
後朝恋
別(わかれ)にし 袖のなごりの うつりか(香)を 涙の雨に 洗(あらい)すてつる
別れた人の袖の移り香を涙で洗い流したといったことでしょう。
顕恋
しられし(じ)と 涙ハ袖に つゝめと(ど)も も(漏)りて浮きな(名)そ(ぞ) 世に立(たち)にける
人に知られまいとしたが、浮き名は世間に立ってしまったといったことでしょう。
思恋
もろともに 思え思はぬ ことそ(ぞ)なき あへるあはさ(ざ)る 夜ハあれと(ど)も
二人が会わない夜はあっても、互いに思わない時はないといったことでしょう。
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