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水戸の見て歩き

水戸出身・藤田東湖の話(3)

2023-10-18 20:06:02 | 水戸

 西郷隆盛は、われ先輩にては藤田東湖、後輩にては橋本左内を推す 橋本左内は、東湖二人なし。後世また東湖あらざるべし 横井小楠は、色黒い大男は、中々見事なり と、それぞれいっているそうです。写真は、水戸市立博物館に寄贈された、原石川村(現・元石川町)で東湖が幟旗揮毫(のぼりばたきごう)のために使用した硯だそうです。

 

 結城寅寿(とらじゅ)が、徳川斉昭に士分には妾をもたせて男の子をうませるのがよいということをいったことを聞き込んだらしい東湖は、自分の妾を不相応の帯をしめたとかいうことで暇を出したそうです。妾とは、天狗党の筑波山挙兵の藤田小四郎の母のことだそうです。

 

 君公にしたがって無職となり、今は田の祭も出来ない老人、こうした世の変化を怪しむなかれ、もとは梅香に住まいしたので東に湖があるとして東湖と号したが、今は逆さになって、湖の東(湖東)である竹隈にいるのであるから といった意味らしい滑稽漢詩を書いているそうです。

 

 蟄居で住んだ竹隈では、酒の肴は鰯のぬたや奴豆腐くらいが常で、鰹の刺身は最上等だったそうです。酔うと腕相撲、枕引き、はては長押(なげし)へ両手を掛けて足をちぢめての長押渡り、といった具合だったそうです。徳利は床脇の李白集と書いた本箱の中に入れてあり、下の引き出しに盃が入っていたそうです。

 

 江戸に戻り、白山で乗っていった馬の口を洗ったとき、付近の人相見に剣難の相があるといわれたと、寄って酒を飲んだ知人の家で笑って話していたそうです。それは東湖が死亡する安政の大地震の4-5日前だったそうです。

水戸出身・藤田東湖の話(2)


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