ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸にある梅の字がついた菓子(1)

2017-03-21 21:15:06 | 水戸

 有名な水戸の梅、のし梅以外を並べてみました。

練り菓子系 
 梅はごろも(井熊総本家 南町3-3-48)
 常陸の里(梅)(井熊総本家 南町3-3-48)
 梅一途(亀印本舗 見川町2139-5)
餅菓子系
 梅干大福(偕楽園水戸黄門茶屋 常磐町1-3-1)
 梅みそだんご(梅まつり偕楽園内露店)
流し菓子系
  梅ようかん(井熊総本家 南町3-3-48)
焼き菓子系
  紅白梅煎餅(入船堂 南町3-4-14)
 梅せんべい(金来屋米菓店 八幡町7-8)
 チーズ梅(都炉美煎本舗 栗崎町1251-5 )

 

       

      梅はごろも              常陸の里梅

 

       

      梅一途                      梅干大福

 

       

      梅みそだんご                  梅ようかん

 

       

      紅白梅煎餅                   梅せんべい

 

      

      チーズ梅

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸の鐘(2)

2017-03-20 21:27:07 | 水戸

桂岸寺(松本町13-19)
 墓地入口の門に「時なしの鐘」があります。多分いつでもついてくださいという意味なのでしょう。昭和42年に檀家から奉納されたもののようです。

 

円通寺(千波町1227)
 昭和53年の銘がある、人間国宝・香取正彦製作の鐘です。響きがよいのでしょうか、少し変わったかたちをしています。

 

本行寺(上水戸4-8-1)
 第二次大戦で鐘が供出されたときに、重しがなくなってしまった鐘楼をもたせるために、コンクリート製の鐘や石がつるされたそうです。それが、本行寺では鐘楼に残されているようです。新しい鐘は昭和56年につくられたそうです。

 

妙雲寺(見川2-103)
 平成3年の銘とともに、「妙雲寺梵鐘の由来」が鐘の周囲に記されています。徳川斉昭による鐘回収(廃寺処分)以来の復活だそうで、思い入れもひとしおだったのでしょう。

 

黒磯公民館(黒磯町)
 庭には火の見だけでなく半鐘も残っていました。これは、もう文化財です。この半鐘は、寺の梵鐘を模倣してつくられたようで、さすがに108つはありませんが、上方の突起物・乳(ち)もしっかりとついています。

水戸の鐘(1)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸街道の遺跡

2017-03-19 22:13:21 | 水戸

 水戸街道(江戸街道)は、文政5年(1822)には23藩の大名が参勤交代で通行したそうです。幕末の混乱期には、封建時代には無謀ともいえた、自らの考え方を伝えようと、多くの士民、農民が江戸へ押し出すといった行動をとったそうで、なんでも通る水戸街道ということばにもなったようです。

 

一里塚(元吉田町 県道180号線)
 水戸街道は約30里(約120km)あって、30か所の一里塚があったそうです。普通は道の両側に小高い盛り土があって、そこにエノキやケヤキが植えられていたたそうですが、今、ここでは一方にしかなく、エノキ(樹齢100年)が植えられています。また、阿夫利(あふり)神社が祀られ、石仏が並んでいます。

 

銷魂橋(たまげばし)
 紺屋町から七軒町(本町側)にゆく備前堀を渡る橋で、農村から城下への境界と思われていたそうです。元禄3年にこの名になったそうで、このあたりは広小路ともいって古着市がたったそうです。

 

宿場跡碑(本町2)
 碑のあるあたりが、水戸本町(ほんちょう)の宿場の中心だったそうです。宿場だけでなく商業・流通の多くが本町に集まっていたようです。明治以降、特に鉄道の開通以後、駅と離れた本町は衰退に向かったそうです。多くの都市で、鉄道火災を心配して反対運動がおこったことがあるようですが、本町でもそれがあったのかもしれません。

 

 

桝形(元台町1(写真左)、元吉田町2(写真右))
 城下への軍勢の侵入を妨げようとする桝形は、水戸に街道が入ってから、二か所あるようです。ともに見事に屈折しています。

 

本陣(本町)
 本陣があったことは安永7年(1778)の入用書き上げがあるので確かだそうですが、それがどの家だったかは分からないそうです。問屋は原則2軒だったそうで、その役料は1年で、モミ10俵というわずかなものだったそうです。この当時、藩政の末端をこなす町民への報酬は、名誉だったようです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸の川べを散歩する-逆川

2017-03-18 23:02:29 | 水戸

 逆川は、海側から逆に流れているのでいわれたようです。昔は、平須町にある市営六番池住宅あたりにあった六番池が源流だったようです。今は、東野町にあるメグミルク川上牛乳店下あたりで、左右の用水が合流して始まっているようです。とりあえずそういうことにして、歩いてみました。今年初めてウグイスの鳴き声を聞きました。

 

 

はじまり
 北側は笠原町の笠原歯科あたりからの流れと、南側は茨自販健保組合総合運動場先、東山団地調整池の流れが、メグミルク川上牛乳店で合流しています。

 

               

野草
 たくさんの春の野草が土手沿いで見ることができました。写真は一番よく見ることのできる、オオイヌノフグリ、ホトケノザ、ヒメオドリコソウです。

 

素鵞神社
 昭和50年の再建された、素鵞神社がありました。

 

イヌツゲ
 第二米沢橋を渡って、近くの麺屋三一五となりに、樹齢400年のイヌツゲがありました。

 


 初めの橋(名称不祥)、第三米沢橋、中水門橋、第二米沢橋、笠原橋、米沢高架橋、米沢橋、新米沢橋、塩橋、水神橋、小門橋、ふれあい橋、本郷橋、逆川橋、舟付橋、駅南中橋、駅南出合橋がありました。写真は、斜めにとなりあわせる逆川橋と舟付橋です。

 

逆川緑地
 笠原水源ホタル再生地漱石所跡などがあります。写真は笠原水源です。

水戸の川ベを散歩する-新川

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

水戸の屋敷軒数がはいった旧町名等

2017-03-17 20:45:18 | 水戸

 水戸には〇軒町という名称の町がいくつもあります。中でも面白いのは、「三軒町」です。
本町・三間町  文政期の地図では三軒町→城東と同名なので三間町に(明治42年の地図では三間町)
城東・北三軒町  はじめ、三軒屋敷、三軒町→昭和9年に三間町と同音なので北三軒町(改訂水戸の町名)
 はじめは、両者が同じ三軒町といわれていて、まず、城東が同名を避けて三間町とし、その後、城東が同音なので、北三軒町としたということのようです。そのため、元々の三軒町という町名はなくなってしまったようです。

 

 三間町  備前堀にかかる金剛橋の北側にあり、肴町(江戸町)に通じていたそうです。写真は金剛橋からで、奥を左に曲がったあたりに表示の石碑があります。

 

 北三軒町  寛政9年(1779)3人の武士の屋敷となり、三軒屋敷、三軒町と呼ばれたそうです。写真左手は、県営明星アパートで、このあたりに明星池(めいせいいけ)があったようです。

 

 五軒町  元は八王寺町といわれ、今の芸術館、京成パーキングのあるあたりだそうです。ちなみに、五軒小学校(金町3-2-25)は現在、五軒町にはありません。

 

 裡五軒町   泉町2あたりと五軒町1あたりの2箇所にその名が見られるそうです。写真は泉町2-4あたりです。

 

 七軒町  銷魂橋(たまげばし 写真の欄干のあるところ)の北にあり、商人町・本町と水戸城方面への入口になっていたそうです。商人が7人住んだので、寛文3年(1663)に名が付いたそうです。

 

 十軒町  元禄年間(1688-1704)に、10軒の武家屋敷があっためによばれるようになったそうです。写真左手は、十軒町児童公園です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする