卓袱台の脚

団塊世代の出発点は、狭いながらも楽しい我が家、家族が卓袱台を囲んでの食事から始まったと思います。気ままな随想を!

2024年 ポタリング 手賀沼から木下(きおろし)周回(3)

2024年04月03日 07時15分53秒 | 自転車

2024年 ポタリング 手賀沼から木下(きおろし)周回(3)

 

 

※ 『2024年 ポタリング 手賀沼から木下(きおろし)周回(2)』からの続きです

 

 

(3月2日 印西市木下地区ポタリングコース)

 

 

「「生そば柏屋」、江戸時代から続く、当主七代目の老舗のそば屋。古くからの「そば」、「つゆ」の製法をかたくなに守りながら、時々の趣向・食材を取り入れてきた。おすすめは、「天ざるそば」」(町なみガイド)

 

Aが頂いたのは、「もりそば付きミニカツ丼セット」です。口コミに「人気あり」様に書かれていました。電球数個の店内は薄暗く、長押に何か架かっていますが、ハッキリ分かるのは「掛け時計」くらいです。やはり百数十年余り積年の重みは「味」があり、1時を回っていますが、お客は入れ替わり立ち替わり、切れ間がありません。濃いめの出汁をそば湯で割って、美味しく頂きました。

 

 

(「生そば柏屋」通りに面した格子戸が歴史を語る )

 

 

(「もりそば付きミニカツ丼セット」)

 

 

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【腹ごなし】

 

徳川家康が江戸入りした頃の1590年、当時、越谷付近で合流し、東京湾に注いでいた利根川と荒川は、度重なる洪水により、埼玉から東京東部は大湿地帯でした。家康は、利根川と荒川を分流させ、利根川の流路を銚子沖の東側へと大きく変える工事に着手しました。これが「利根川の東遷事業」です。1594年に始まり、主要河川の瀬替え(人工的に流路を変える)・開削を実施、60年間第6次にわたる事業期間の後1654年、小貝川・鬼怒川を併せ太平洋に流れる「東遷事業」は完成しました。幕藩体制の根本を支える「米」を安全・安価にして安定的に輸送する舟運路を整備することは、急務でした。

東遷事業が進む中、木下を起点とし行徳までの約36kmの木下街道は、江戸と下利根川地域を結ぶ最短の連水陸路(河川・湖間をつなぐ陸路)として、多くの荷駄・旅人が利用し、六ヶ宿組合(木下 大森 白井 鎌ケ谷 八幡 行徳)もできあがっていました。この街道は、銚子方面からの海産物・鮮魚輸送のルートでもありました。

木下は東遷事業完成以後、「河岸場」(※)としての役割が著しくなり始めました。当時、「お伊勢参り」に次いで広く親しまれていた「東国三社巡り」(香取神宮 鹿島神宮 息栖神社)は、「木下茶舟(きおろしちゃぶね)」に遊客を乗せ遊覧三社を巡るもので、江戸の人士に大変人気があり、木下はその乗船所でした。

舟運と街道の起終点として繁栄し始め、幕府公認の城米津出し(河岸まで陸送する)河岸となる中、頭角を現してきたのは、問屋・名主を務めていた「吉岡家」でした。

 

※ 「河岸」

江戸期、荷物や人の運送のために作られた、川舟用の着岸場をいう。河川舟運での物資流通量の増大に伴い、各地に新設・整備された。各河岸には、河岸問屋、船持ち、船頭、水手(かこ)や積荷を上げ下げする日雇い人が居住、旅行者休泊のための茶屋、旅籠、市場が立ち繁栄しました。

 

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利根川舟運で栄えた木下河岸の河岸問屋「吉岡家」に残る明治24年築の土蔵を、市民ボランティアで再建、再生・保存活用しながら、街の歴史を伝承しているのは「木下まち育て塾」です。土蔵は「吉岡まちかど博物館」として、月2回一般に無料で開放されています。今回のポタリングは、その開館日・第一土曜日に合わせて実施しました。当日は、「桃の節句」の時季でもあり、ひな祭りの「ひな壇飾り」も見られました。

 

 

(「吉岡家」の再建土蔵「吉岡まちかど博物館」 )

 

 

(「吉岡まちかど博物館」土蔵入口 )

 

 

(「吉岡蔵のひな飾り2024」奥左小振りなひな壇が吉岡家由来のもの)

 

 

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【吉岡家】

 

江戸期より引き続き、東京と下利根川地域の諸町村を結ぶ物流・交通の要衝地「木下」は、明治期に入っても繁栄を続けていました。明治10年代の資料には、旅館・旅籠14軒、年間宿泊者数は3万人にも上るとあります。

吉岡家は三代(幕末~昭和初期)にわたり、河岸問屋、戸長(明治初期町村の行政事務を預かる吏員、町村長)、郵便局長として木下の政治・経済の中心でありましたが、その主要な稼業は「川蒸気船事業」でした。当時、高瀬舟が舟運の主流を占めていた頃に、「吉岡造船」の名で最先端の外輪蒸気船を数隻所有する船主として、乗り合い旅客船を運航、最大の個人汽船業者となりました。しかし、他・汽船業者も台頭する中、利根運河開通、鉄道の発達延伸、木下駅開業、利根川堤防改修による河岸場の喪失と、舟運に栄えた町の衰退の兆しも迫っていました。

明治28年 銚子ー東京(蠣殻河岸・中央区)間144km、利根運河経由の直行航路が開設され、18時間で結ばれました。

 

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明治期、上利根川・下利根川地域と東京を結ぶ河川水運網は、川蒸気船事業の黎明期から繁栄期、そして終焉期でした。政府庇護の内国通運(後の日本通運)、地方個人事業家の銚子汽船、吉岡家、他などが大消費地東京への覇権を得んがため航路を広げていました。「吉岡まちかど博物館」の展示でAの興味を引いたのは、明治44年頃の「汽船航路略図」でした。利根運河(明治33年開通)、野田ー柏間開通(明治44年)とポタリングコース上の歴史を見る思いですから。

 

「土蔵」に入ると、゛関係者のおばちゃん ゛らしき人が、「どこから来たの、初めて?」と、2階の「ひな祭り飾り」を説明してくれました。「吉岡家の事」を展示物と共に、事細かに説明して頂けますが、Aは撮影と説明書を読むのに気がいって、半分上の空です。「灯籠は見た?」と言い残し、他の人へ行ってしまいました。

 

 

(Aの気を引いた「汽船航海略図」)

 

 

おばちゃんの言う「灯籠」とは、庭の片隅にある「貝化石三本足灯籠」でした。説明書によると「古東京湾(12~13万年前)の頃、波や潮に集められた貝殻層が固着したものが、この地で初めて調査された。岩の出ない木下では、切り出された貝層(木下貝層)で石垣や灯籠を作った。「一本足灯籠」が域内では多いが、三本足は「吉岡家」が最大、日本一」と、述べてあります。よく見る貝塚層で成形された灯籠を見るのは、初めてです。「生そば柏屋」の庭にもあるということですが、「吉岡まちかど博物館」の入口に、一本足のものがありました。

 

 

(珍しい「貝化石三本足灯籠」)

 

 

(「吉岡まちかど博物館」入口の「貝化石一本足灯籠」)

 

 

「コーヒーでも飲んで行きなさい!」と言ってくれるのを、愛想笑いで断り、利根川土手に向かいました。「土蔵」から数分の利根川土手右岸を押し上がった所に、2m四方の比較的大きな説明看板「木下河岸跡」が、ポツンとありました。土手上からその方向を指す道標もありますが、示す先には、往時を偲ばせる跡は何もなく、河原にそよぐ枯れた葭がなびくだけでした。

 

 

(利根川右岸「木下河岸跡」の説明看板 )

 

 

(往時を偲ぶものは何も見当たらない利根川縁「木下河岸跡」 )

 

 

利根川が左に大きく湾曲した右岸が木下、左岸側は茨城県北相馬郡利根町布川になります。「木下河岸跡」から約20分、少し上流に行った「栄橋」を渡り、かつての下総の国布川の「赤松宗旦旧居跡」(生家を復元)を訪れました。

 

「安政年間、布川の一町医者・赤松宗旦の並々ならぬ時間・金銭・労力を費やした篤志により著された『利根川図志』は、利根川下・中流域の歴史、風物、民間異聞、伝説、生息する鳥魚類、神社仏閣に係る内容と数十の挿入絵、ゆかりの詩歌俳文を多彩絢爛に述べられた、民俗学的にも目を見張る文献でした。民俗学の父と言われた柳田國男が、少年時代に読み、深く感動し民俗学を志すきっかけになった本です」

 

利根川・江戸川沿いを好んでポタリングするAにとって、一度は読んでみたい本です。当日は、生憎閉まっており、屋内の展示物などは見られませんでした。

 

 

(「赤松宗旦旧居跡」 )

 

 

「赤松宗旦旧居跡」を後にしたのは2時半、手賀川左岸、手賀沼北岸を経由、駐車場に着いたのは4時頃です。午前中は、風もありましたが、午後はそれもおさまり、一日中晴天の楽しいポタリングに恵まれました。

 

 

(2024年3月2日 手賀沼~木下周回ポタリングコース)

 


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