浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

極楽と地獄の在り処
たずぬれば我が内にこそ
共にあるなれ

「講演集」より。

2015-02-06 00:22:58 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


          講演集、 二


     「私は神」と「私は神の分け御霊」


或る人が私のところに見えて、
「私は神であるということを悟り気付かせていただきました。
私は神です」と言うので、
神の如く生活していないのに恐れ多いことを言うなあと思っておりました。
この人は肉体の痛いところが多く不調和な方でした。

例えば太平洋が神様としますと、汲み上げた一滴の水も神様です。
この一滴は太平洋の水の一滴とは言えますが、この一滴は海ですよ、
太平洋ですよ、と言えば笑われます。
太平洋の水ではありますが、即ち太平洋ではありません。
しかし、汲み上げた一滴の水が太平洋に帰った時、私は太平洋の一部ですと言えます。
それと同じことで、私たちは神の分け御霊です。
尊い大生命の中から分かれさせてもらった神様と同質同根の生命です。
しかし、私たちは神ではありません。
神の分け御霊です。

そのように思わせてもらったら間違いないのではないかと思いますね。
神の如く生きないで、私は神だ、私こそ神だとは言えません。
神様の如く生きてこそ神と言えると思います。 
沖縄にイエス様の話しを翻訳なさったN先生という方がおられます。
その先生の名刺を頂きますと、「いと小さき神理のメッセンジャー」と肩書きに
書いておられます。
私は「神のいと小さき神の御使い」、
つまり私たちは皆いと小さき神の御使いとして生きさせてもらっているのです。
それを自覚したらいいのですね。

「私は神の使者として生きさせていただくことに目覚めました」といって、
その会場でお話しさせてもらったのです。
スモッグを払った時に、さんさんととして光が注がれます。
その時、望むことなしに現証はあらわれます。
このようにFの会場で説明させていただきました。


            ~ 感謝・合掌 ~



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