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浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

得るものも失うものも無き我れに
何を恐れん我れ神の中

「講演集」より。

2015-02-07 00:30:32 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


            講演集、 二


       お年寄りとの対話の続き


さきのおじいちゃんがこのようにおっしゃいました。
「私は今日までいろんな宗教を渡り歩いてきたが、納得がいかないから、
その都度疑問に思うことをいろいろ質問させてもらった。
ところがお前は生意気だから後ろに行けと言っていつも追い払われた」と。
あまりしつこく聞かれて説明ができなくなり、
ひどい所ではもう出て行けと言われたそうです。
ところが、こうして納得のいくまで教えてもらいましたと話されているうちに、
先ほどまで「あんたあんた」と呼んでいたのが、急に「先生」に変わりましたので、
先生なんて言わないで下さいと言ったのですが、「大体、先生は姿や形が
貧弱だからいかん、先生だったらもっと偉そうにしておれ」と言うのです。

そして終わりになりましたら頭を机にすりつけて、
「先生、わしはもう八十何歳になったが、こんなにありがたい先生にめぐり会わせてもらって、
あの世に帰る時のおみやげを頂いた。
年に一度か二度しか会えないけど、どうか私を導いて下さい」と言って、
ひれ伏して拝んでくれました。
それで、私が「寄せてもらっても、一切の求める気持ちはありません。
ただ縁のある方が幸せになってくれたらいい、不幸な方が救われてくれたらいい、
その思いだけで日本国中を回らせてもらっています」と言いますと、
「それでは何をして食うてるのや」と尋ねます。
「私は一生懸命働きます。自分の食べる分ぐらいは自分で稼ぎます。

そして余ったお金を旅費にして、会場を借りていただいた場合は、
私も負担して全国を回っています」と言うと、
「あんたよっぽどボロイ仕事をしてるのやなあ」(笑い)。
「いやいや、私は普通ですけど、神様が与えた下さったのです。
私はもう結構ですから、これ以上頂きませんようにと言いましても、
神様のほうがいやいやあなたにはもっとしてあげなくては気が済まないと言って下さいます」と言うと、
「あんた得な人やのう」(笑い)。

まず自分が出しますと、普通は損をすると思いますが、しかし出すと必ず入ってきます。
出させていただくと入る、出すと又入ってきます。
これが自然の法則ですね。
だから、常に出させていただくことを日々の生活にかくれて行っております。
これは、喋りますと損をします。
喋りますと、それはみな赤字になります。
しかし私は敢えて天の蔵から皆さんの為に放出して損をさせてもらいます。
今回から九十分のテープを区切りに話しさせてもらいます。

このあと九十分話しさせてもらいますが、
もし私のつたない話しを聞いて救われて下さる方があれば、
そのお役に立たせていただきたいと思いますので、
テープは原価でお頒けすることになりました。
この機械はAさんのお世話で、このように皆さんの為に、大変高価なものを
喜捨していただきました。
心からお礼申し上げます。
では九十分ですので、ここで休憩させていただき、
あとまた九十分のお付き合いをお願いします(拍手)。

                           ――休憩――


               ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-02-06 00:22:58 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

        恩師のご著書「講演集」より


          講演集、 二


     「私は神」と「私は神の分け御霊」


或る人が私のところに見えて、
「私は神であるということを悟り気付かせていただきました。
私は神です」と言うので、
神の如く生活していないのに恐れ多いことを言うなあと思っておりました。
この人は肉体の痛いところが多く不調和な方でした。

例えば太平洋が神様としますと、汲み上げた一滴の水も神様です。
この一滴は太平洋の水の一滴とは言えますが、この一滴は海ですよ、
太平洋ですよ、と言えば笑われます。
太平洋の水ではありますが、即ち太平洋ではありません。
しかし、汲み上げた一滴の水が太平洋に帰った時、私は太平洋の一部ですと言えます。
それと同じことで、私たちは神の分け御霊です。
尊い大生命の中から分かれさせてもらった神様と同質同根の生命です。
しかし、私たちは神ではありません。
神の分け御霊です。

そのように思わせてもらったら間違いないのではないかと思いますね。
神の如く生きないで、私は神だ、私こそ神だとは言えません。
神様の如く生きてこそ神と言えると思います。 
沖縄にイエス様の話しを翻訳なさったN先生という方がおられます。
その先生の名刺を頂きますと、「いと小さき神理のメッセンジャー」と肩書きに
書いておられます。
私は「神のいと小さき神の御使い」、
つまり私たちは皆いと小さき神の御使いとして生きさせてもらっているのです。
それを自覚したらいいのですね。

「私は神の使者として生きさせていただくことに目覚めました」といって、
その会場でお話しさせてもらったのです。
スモッグを払った時に、さんさんととして光が注がれます。
その時、望むことなしに現証はあらわれます。
このようにFの会場で説明させていただきました。


            ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-02-05 02:11:42 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

           恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 二


      苦しみの原因を断つこと、その方法


先の続き・・・

仮にスモッグで心の中を真っ黒にしましても、
その外側も内側も何ら変わりはありません。
地球の周りがスモッグでとり囲まれても、
その外には太陽の光がさんさんと注がれております。
スモッグの層が厚くなりますと、太陽の光は遮られ、地球には届きません。
そのスモッグは太陽の熱、光と化学反応を起こして、光化学スモッグとなり、
目がチカチカしたり、皮膚がかゆくなったりします。
そこへ硫酸の雨が降って、
森林が全部枯れた場所というのが地球上にいっぱいあるそうですね。
テレビで映していました。

あれは人間が出したスモッグによって、
化学反応を起こして酸化した雨が降ってくるから、樹がみな枯れてしまうのです。
それと同じことが心の中で起こります。
神様の光がさんさんと注がれる中にあって、自分の心から出したスモッグに
よって、その神の光を遮って、通らなくしています。
スモッグによって完全に光は遮られますから、しかも化学反応と同じように
自分の心を腐食させるような作用も起きますから、このスモッグを出さない
ことが大事です。

次に、今度は法を学ぶことと、反省すること、そして自分が過ちを認めた時に
これに代わる償いの善き行いを積み重ねていくことです。
そのことによって魂が清められてきます。
スモッグが薄くなってきます。
雲間からサーッと太陽の光が射している光景を見られたことがあると思いますが、
あれと同じ状態が私たちの心の中に起こります。
その時、内なる神と外なる神が一体となってつながります。
私たちは皆神の御子です。


            ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-02-04 01:05:14 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


           講演集、 二


      苦しみの原因を断つこと、その方法


先の続き・・・

どれほど熱心に信仰しても、どれほどすばらしい教えを受けても、
どれほどすばらしい加持祈祷をしましても、自分がその原因を断たない限り、
その結果は消えません。
私の信仰とは「行い」であり、信仰とは屁をこかないことです。
屁をこくということは、苦しみの原因を作ることです。
苦しみの原因を作らない実践をすることによって自分が苦しむことが無くなってくるのです。
屁たれ虫という虫がおります。
二センチぐらいのチョコチョコ走る虫で、棒でお尻を押さえるとプーッと煙が出てきます。
私ら幼い時に、あれを「へったれ虫」言いました。

拝んでばかりいて、そのはしから苦しみの原因を出し続けている方の信仰を、
「お宅様の信仰は屁ったれ虫信仰と言います」と、私は言うのです。
いくら拝みましても、朝から晩まで拝んでも、幸せにはなれません。
Y先生が、石川県にいる教え子で、もう四十代の方ですが、その方にお話の
テープを送られたのです。
そうしたら、護摩も駄目、お経をあげても駄目、拝んでもらっても駄目だったのが、
そのテープを聞いた時ものすごくショックを受けられたそうです。
「自分は今日まで数々の過ちを犯してきた、一体この過ちをどうしたら救われることができるか、
話が道筋立っているので、救われる道がなくなったら、
一体私はどうしたらいいのか」と思って、三十数回もテープを聞き直し聞き直しして、
救われる方法をどこかに話しておられないかと思って探されたそうです。
ようやく最後のほうで「悪を止めて善を積みなさい。そのことによって罪は
許されるであろう」という言葉を見つけて、「初めて分かった」と言われたそうです。

同じことをしゃべっているのに、一度も直接お会いせず、
テープを聞いただけでものすごくショックを受けて、これはえらいことだと思って下さる方もあれば、
直接話を聞いても、ははは面白かったなあと、少しもショックを受けないで済んでしまう方もあります。
一番大事なことは、スモッグを出さないことですね。
観念、行為、言葉のおならを落とさないことです。
おならを出せば臭いですからね。
しかし心から出してしまったスモッグは、これは払わなくてはいけません。
それでは、払うのにどうしたらいいかと言いますと、反省をさせてもらうのです。
常に自己反省をすることです。
つまり幼い時から今日まで一体どういう生き方してきただろうか、過ちはなかったか、
人さまに見られて恥ずかしいことはしなかったか、
あの時あれさえしなければよかったと思うような出来事を作ってはいなかったか、
誰も見ていない、誰も知らないからといって、もし見られたら恥ずかしい行いはしなかったか、
或いは心の中の思いはどうであったか、これらが全部スモッグとなっておりますから、
反省させていただいて、そしてその過ちを一つ一つ悔い改めた時に、スモッグは薄くなっていきます。


               ~ 感謝・合掌 ~




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「講演集」より。

2015-02-03 01:39:11 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


             講演集、 二


     苦しみの原因を断つこと、その方法


私たちは、真っ黒けにスモッグを出しても魂そのものは汚れていないのです。
その周りが曇っているだけのことです。
常に反省させてもらって、
自分の過ちを正すことによって自分が出したスモッグを薄くしていくことですね。
スモッグを打ち消す方法として一番大事なことは、今後の生活で心のスモッグを出さないことです。
あとからあとからスモッグを出したら、いくら反省して消そうと思っても、
尻から出せば同じことです。
先日も或る地方にいって、「皆さんおならを落とした経験がありますか」と言うと、
皆へへへと笑われます。
おならと言えば上品、屁をたれると言えば、先生はえらい下品なことをおっしゃると言われますが、
しかし現実に屁をたれない人はありません。

しかもこのおならには、頂いた食物という原因によって臭いという結果がいろいろに変わります。
これは原因・結果の法則です。
ニンニクを頂いておならをすると、これはとても叶いません。
お豆腐などのあっさりした蛋白質のものを頂いたら、おならもあっさりしています。
これはなぜそうなるかと言うと、原因があれば必ず結果が現れるという法則に
従っているでけです。
「この臭いは叶わないから、神様どうか臭いを取って下さい」と祈っても、
自分が臭い原因を作っておきながら、滝に打たれたり、護摩を焚いたりしても
とれるわけがありません。
あと出さなかったらいいのですが、お参りをしながら尻から又おならを出す、
すると又臭いがします。

他力信仰というのは、これとよく似ているのです。
一生懸命神様に、「福を下さい、健康にして下さい、幸せにして下さい」
といくらお祈りしましても、
不幸になる原因、悲しみの原因、苦しみの原因である屁を自分がたれていたら、
いくら拝んでも同じことで、臭いはプンプンとしてきます。
まず、お尻をちゃんと締めて屁を出さないことです。
有難いことに、神様は自然浄化作用、自然治癒能力という愛をこの地上界に
与え給うております。
一度臭いにおいを出したとしても、あと出さなかったら、何も拝まなくても、
臭いは自然に消えていきます。
自分が臭いの原因、苦しみの原因を続けますと、永遠に救われることはありません。
一度で止めれば消えるものを、何回も出したのでは繰返しになります。
こういう話をしますと、先生は不謹慎だ、
神様の話をしながら屁の話をしたとおこられますが、これは神理です。


             ~ 感謝・合掌 ~



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「講演集」より。

2015-02-02 00:38:09 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


           講演集、 二


       本来心は清浄なるもの


なぜ、私は拝まないのに神様はあなたの病気を癒して下さったか、
おじいちゃんは一生懸命拝んで自分の病気さえなぜ治していただけないのか。
私たちの心は本来清浄なるものです。
オギャーと生まれた時は何の曇りもありません。
全部すばらしい清らかな心を頂いて生まれさせてもらいました。
その証拠に、どんな赤ちゃんの顔を見ても全部可愛いです。
どんな赤ちゃんの顔も全部安らかです。

なぜ、そのように安らかであるか、そして可愛いのかといいますと、
それは心が曇っていないから、あのようにすばらしい顔になるのです。
それがだんだんとこの世の風に当たりまして、人さまとの出会いがあり、
出会いによって体験する出来事があり、
この出来事の中で清浄な心を次第次第に曇らせていくのです。
私たちの心は自分にとって都合のいいときは安らかでいられるのですが、
自分にとって悪い都合の出来事が起こった時、必ず苦しみます。
腹を立てたり、愚痴を言ったり、相手を恨んだり、憎んだりして、
その都度自分の清らかな魂を曇らせていきます。
本来は丸く豊かな心を頂いて生まれました。

怒り、妬み、謗り、愚痴、不要な心配、取越し苦労、不安、恐怖などによって
自分の心を曇らせた時に、その清らかな魂からもくもくとスモッグが出てきます。
その吐き出したスモッグによって自分の魂の周りをくるんでしまうと、
スモッグが私たちの肉体や顔に形となって現れてきます。
苦しんでいる方のお顔を見たら、苦しい顔をしておられる。
喜びに満たされた方のお顔を見たら、喜びに満たされております。
しかも顔だけではなく、肉体そのものも喜びに躍動しております。
悲しみにうちひしがれている時は、必ずそういう顔になっています。
肉体そのものが表現しており、これは避けることはできません。
赤ちゃんは何の曇りもありませんから、あのように安らかで清らかです。


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「講演集」より。

2015-02-01 01:37:23 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

         恩師のご著書「講演集」より


           講演集、 二


       或るお年寄りとの対話


先週の日曜日、Fの地に招いていただきました。
三階の広間が会場になっていましたが、エレベーターがありませんでした。
或るおじいちゃんが両側から抱えてもらってやっと部屋に入って来たのですけど、
入るなり机の前に倒れてしまって息絶え絶えだったのです。
ちょっと息を整えてから私の前の机に坐られましたが、
ひどい喘息の発作で苦しそうでしたので、
「喘息を止めましょう」と言って光を与えますと、
忽ち発作は止まりました。
半時間ほどそのまま話をさせてもらってから、
「おじいちゃん、喘息は止まりましたね」と声を掛けますと、
「いや、わしはじっとしてたら、喘息は出ないのや」
と言うのですね(笑い)。

「じっとしてたら出ないというけど、今まで出てましたよ」と言いますと、
「家でじっとしてたら出ないのや、こうして階段を上がって
来て動いたから出たのや」とおっしゃるのです。
「まあ、それは結構でしたね」と言ったのですが、その方は家にいても喘息が
出て苦しくて堪らないから会場に来ておられるのです。
以前から苦しいので助けてあげて下さいということで、名刺に書いたものを
渡してあったのですが、いつもその名刺にお祈りして、「長尾先生助けて下さい」
と言い続けておられたというのです。
それが、私に「あんたなあ、喘息が止まったのはあんたに関係ない」と言われるのですよ。
「今私が、どうぞこのおじいちゃんに光をお与え下さいといって神様に祈ったのを見たでしょう」と言っても、
「そんなことで治るはずはない」と言い張っていますから、
「では、おじいちゃん一度階段を下りて、走って上がってきて下さい」と言いますと、
「そんなことをして苦しゅうなったらわしは叶わんから、
そんなことはしない」と、しぶっています。

「でも、しなくては分からないから、行ってきて下さい」と言うと、
おじいちゃんはしぶしぶ出て行かれたのです。
ところがおじいちゃんは、
「不思議だなあ、わし走って上がってきたのにどうもないわ」ということで、
それからそのおじいちゃんと私との愉快な対話が始まりましてね。
もう皆さん、大笑いされました。
「わしは朝一時間と晩一時間ずっと毎日神さん仏さんを拝んでいる。
あんたも拝んでいるのかい」と言われるから、「私は拝んだことはありません。
私が祈るのは、朝の祈りはトイレの中です。
夜の祈りはお風呂です」と言いますと、「まあ勿体ない。あんたようそんなことするなあ」と、
びっくりされます。
「しかし、私はお尻を出して神様にお祈りしても神様は聞いて下さいます。
生まれたままの姿でも神様は聞き入れて下さいます。
おじいちゃんは、神様を拝もうと思ったら、歯を磨き、手を綺麗にして拝んでいるでしょう。
でも神様は聞いてくれないでしょう」と言うと、「そのとおりや。どうしてこんなに差があるのか、
一度聞かしてくれえ」と、まるで叱られているみたいなものでした。


               ~ 感謝・合掌 ~



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