浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

恩師の歌集「愛」より

五十路過ぎ振り返り見ば
我が人生罪と恥との
積み重ねなり

「御垂訓」

2020-08-17 00:01:11 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

恩師「長尾弘」先生が中国の黄山を登山された時に写されたお写真ですが、
ご覧のように恩師の左胸の辺りに十字の光が出ております。


 恩師のご著書「講演集」より

        講演集、 一

        「悪魔の正体」


先の続き・・・

太陽は自らを燃焼させ、自らを犠牲にし、
その結果として現れる熱と光(慈悲と愛)を他に与え給います。
太陽の如く生きることこそ偽我を克服する生き方です。
サタンを退ける生き方です。
布施の心です。
よく自分の気に入らない人から言葉をかけられて、返事もしない、
ひどい人はツンと顔をそむけるような人があります。
しかし太陽の熱、光は万象万物いっさいのものに対して、
絶対に差別はなさらない。
すべてに対して平等に光を与え給います。

私達もいっさいのものに差別の行想言は慎むべきだと思います。
一つに自分に対して気に入らない行為をされると、
相手の気に入らないことを二倍、三倍にして
返してやるという人もあります。
私達が太陽に向かってどれ程太陽の悪口を言っても、
太陽はさんさんと愛の光を与え給います。
復讐も太陽の心から遠く離れてしまいます。
しかしもし天に向かって唾すれば、
その唾は自分に降りかかるでしょう。
あれをしたのに喜ばない、
これをしてあげたのに礼を言わない、
あれこれしてあげたのに感謝の金品を持って来ない、
お礼もしないなどと言って怒っている人を見ます。
太陽は熱、光をいっさい無報酬で与え給います。

私達も常に太陽の心を我が心にいただき、日々の生活の中で、
自分の想念行為は太陽の心にそっているか、
太陽の心から離れていないか、
一瞬一瞬をきびしく見つめる練習をしてみたいと思います。
世の中は多く語って非難され、少なく語って非難され、
黙っていて非難されるというふうに、
非難を受けない者はないと言われます。
しかし私達法を学ぶ者は、それをいただかなかったならば、
その過ちはその人のものであって私達のものにはなりません。
太陽の心に逆らった想念行為こそ、
私達を苦悩の地獄へ誘い込む悪魔の正体と思って下さい。


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「御垂訓」

2020-08-16 00:31:50 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生がインドのお釈迦様の涅槃堂に安置されている
お釈迦様の涅槃像にお祈りされると必ず天空から金粉・金箔が舞い降ります。
この金箔を恩師ご自身が掌に置かれて示されています。


恩師のご著書「講演集」より

         講演集、 一

       「悪魔の正体」


先の続き・・・

己が偉大である、己だけが偉い人間である、なぜか?
自分の過去世が偉大であるからである、そのように思い込み
、日々の行いができていなかったならば、
これは笑い話しにもなりません。
己が偉いと思い込み、増長慢にとらわれて他を非難中傷して
止むことを知らない心、又、
人の過ちを絶対に許さないで何十年間を過ぎてもなお
責め続ける心こそ、悪魔の正体であると見るべきです。
ブッダはこのような人を真の愚者ときめつけておられます。
人は鏡の前に立てば自分の姿が見えます。

それと同じように、悪魔は良き人の前に出れば己の姿を映し出し、
その人を悪魔だと言い、動物霊はその人を動物霊だと言い、
低級霊はその良き人を低級霊と呼ぶでしょう。
又別の悪魔もあります。
それは私達のこの肉体の五官の感覚、自己保存と自我我欲、
私達が此の世でどうしても乗り越えなければならない偽我こそ、
私達の心の隙を常に狙っている悪魔の正体です。
空腹で堪らない時、誰もいない所に御馳走がおいてあると、
無断でも食べたいなあと思う心、ブッダは「己に与えられた
物以外の何物をも我が物にしてはならない」と説かれています。
又肉体もそうです。
つらい思いをするより楽をしたい。
働くより、遊びたい、他人より自分が大事である。
みんな偽我です。


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「御垂訓」

2020-08-15 00:22:05 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生がお祈りをされているところですが、
ご覧のように目から光線のような光が出ています。


      恩師のご著書「講演集」より

        講演集、 一

       「悪魔の正体」


未熟な私、愚かな私が各地に招いていただいてお話をさせていただきますと、
自称、自分が偉い人と自認する方々(自分は如来だとか、
菩薩だと思っている人達)は私のことを低級霊だとか
動物霊だとか地獄霊だとか、高橋信次先生に破門された人間だとか、
それはそれはいろいろとその人その人の心で評価して下さいます。
そのように自分で如来菩薩を名乗るような立派な方々の耳にも、
愚かな私のことが伝わっているとは、本当に有難いことだと
心から感謝せずにはおれません。
信次先生の「心行」の中に「光の天使(如来菩薩)は
慈悲と愛の塊にして」とありますが、
慈悲と愛の塊の方が、人様のことを見下したり、侮辱したり、
非難中傷したり、ありもしないことを本に書いたり、
又うそをいわれる筈は決してないと思います。
それではそのようなことを言う人々の心の中はどうなっているのでしょう。

自分が如来菩薩だという思いが常にあります。
そういう思いの人が、他の自分より勝れた人のことを聞けば、
自分にはできないいろいろの現象がその人に現れることに対して、
偉いと思っている自分にもできないことをする、
常に未熟で平凡で愚かを口にしているような者にできる筈がない、
あれは動物霊がさせているに違いない。
又低級霊或るいは地獄霊だろう。
その思いを信者に伝えていきます。
十数年前にこんなことがありました。
私のお話会で会場いっぱいに金が降ってきました。
来て下さった皆様も私もキラキラになったことがありました。

その時会場に来ている或る人が、
自分で自分のことを今世は如来であると思い込んでいる
「自称菩薩」である人に、この事実を伝えますと、
その先生は即「それは動物霊ですよ」と言われました。
その人は、私の所へ来て、「動物霊でも金を出すことぐらいはできるのですよ」
と言ってきました。
私は「そうです、動物霊でもそれぐらいのことはできます。
昔から狐が木の葉を小判に見せて人を騙した話は、
よく子供の頃に聞かされました。
そこで金を降らせる現象を現わした人が、
日頃の生活の中で動物のような生活をしておられますと、
その人に現れた現象は動物霊の仕業です。
金を降らせたその人が、神仏のように日々の生活をされていますと、
それは神仏の御業です。
私の日々の生活が動物のようか、神仏のようか、
あなたが見られていかがですか」と
聞いてみますと、「よくわかりました」と理解された様子でした。


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「御垂訓」

2020-08-14 00:02:52 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生がインドのカルカッタにあるマザーテレサハウスを
訪問されテレサ様とお話をされているところをカメラに収められたお写真ですが
ご覧のように恩師のお顔がマザーテレサ様のお顔と同じようなお顔に変貌されています。


 恩師のご著書「講演集」より

               講演集、 一

        「地上にさ迷う意識と現代医学」

先の続き・・・

中学三年のこのお譲さんを何とか助けて欲しいという愛の心で
K先生が訴えられたのですが、
学校内ではそういう治療をしてはいけないと、
問題になったそうです。
K先生が胃下垂を即座に正常位に上げてもらう治療ですと
説明されますと、
そんなことはとても信じられないと校長先生が
おっしゃったのですね。

確かに医学では考えられないことです。
しかし翌日完全に治って学校に行けば、
学校の教職員の皆さんも世の中には不思議なことも
あるものだなあと目覚めてもらえたことでしょう。
しかしその後、学校内ではそのことについては
誰も口にしてはいけないタブーになったそうです。
神様は全く信じることができないような
奇蹟を起こされます。

何人もの医者を回って治らなかったものが、
ものの二、三分で治ってしまうのです。
現実にこういう現象があるということは、
何か目に見えない世界があるということですね。
私達が自分の想念、思いを常に浄化しておかないと、
つまり不調和にしておきますと、
そういう霊と相通じる場合があるということです。

九州と東京で心霊治療というのをやっておられるKさんは、
お金をとって診ておられるということです。
一回何十万円だそうです。
私は災いをする霊を取っても無料です。
取るというと聞こえが悪いけど、お救いさせてもらっても、
一銭も要りません。
同じことをして何十万円も取ったら、
これはとんでもないことです。


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「御垂訓」

2020-08-13 00:01:35 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は多くの皆様が先刻ご存知のものですが、
恩師「長尾弘」先生のお体全体から光がご覧のように出ています。
この光が病気を癒し、闇を光に変えていくのですね。
小生自身、恩師のお傍に近づくだけで体がとても軽くなるのを感じたことが
幾度もありました。
このような体験をされた方は小生以外にも沢山の方がおられると思います。
このお写真は先に投稿しました舟形光背のロンドンでのものとは違い
日本で撮影されたものです。
ですから、特別な専門家による撮影ではなくまったく普段のお写真を
撮るときと同じ方法で撮影されたものです。


 恩師のご著書「講演集」より

       講演集、 一

     「地上にさ迷う意識と現代医学」


先の続き・・・

どんなに科学の進んだ現代医学をもってしても、
こういう病は治せません。
それはなぜかと言いますと、医学は、
人の肉体をただ物質として学んでいるからです。
人間の肉体は物質だけではないのです。
科学とか医学では理解できない深い深い神の分け御霊が
この人間の中にあるのです。
そして一方闇の世界の影響も絶えず受けております。
つまりふるさとに帰ることができないで、
この地上に執着してさまよえる意識がたくさんあるということです。
その意識が、自分が苦しいので、
自分と同じ心の在り方をしている人を見た時、
その人にくっつく、つまり憑依するのです。

この地上に執着を残し、肉体はないのに意識となって
うろうろしている人が、
近づいて来た人とたまたま心が通じ合った場合、その人にとっつきます。
すると他の人格ができ上がります。
そうすると医学では分からない変な病気になったりします。
現代老人の呆け問題をやかましく言っておりますが、
これは統計的に見ますと、
一種の憑依現象が起きているのです。
だから憑依している者を救ったら、呆けが治る例があります。
老人呆けは医学的には老人性脳軟化症といっています。

しかし生命力の弱い者や、自分の思いと一致した
人間に出会った時に、霊の憑依が起こり、
それは医者では治せません。
近代医学をもってしても分からない病気はたくさんあります。
心というものを余りにも知らないのですね。
お医者さんの中でも若い医者は絶対にこういうことを信じません。
学校を卒業したての、一生懸命勉強して、
智識を頭に詰め込んだ人は医学がすべてだと思っています。
だんだん年をとっていき、医学の智識、
技術ではどうしても解明のできない謎を体験する
ごとに、何かしら物質以外のものがあるのだなあということを、
お医者さん自身体験していきます。
アインシュタインも、ノーベル賞を受けた湯川秀樹博士も、
他にも有名な科学者が神を信じておられます。
現代科学ではどうしても解明できない偉大な力があるということに
到達するのです。


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「御垂訓」

2020-08-12 00:09:33 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生のご講演中を学びの友の方がカメラに収めたものですが、
御覧のように恩師ご自身、着衣、垂れ幕の字など全てが黄金色に変わっています。
この時の恩師の着衣の色は灰色であったと恩師ご自身が
この後の別のご講演会で説明されておられました。
後ろの垂れ幕の字の色は勿論、元々黒墨で書かれたものですが
これもご覧のように黄金色に変化しています。
恩師が願ってこう言う奇跡が起こったのではなく自然が恩師の
知らない間に与えてくださる奇跡であるとも恩師は仰っておられました。


  恩師のご著書「講演集」より

                  講演集、 一

         「地上にさ迷う意識と現代医学」


この間、中学三年生のお譲ちゃんが私の所に来られたのですが、
手が自動運動を起こして止まらず、物凄く動くのです。
体育祭の練習中に運動場で突然過呼吸状態になったそうです。
その後遺症として手に激しい痙攣が残り、
ひどい勢いで振動を続けて止まらないのですね。
寝ている時は止まっているのに、
起きると左手の肘から先が左右に大きく振幅運動をし続ける。
二週間程して全く声も出なくなったそうで、顔の相も変わってきております。
高等受験の年で、本人もご家族も辛い思いをされたでしょうが、
病院をいくつ回っても治らなかったようです。

そのお譲ちゃんの肩に手を置かしていただいてお祈りをしてから、
その災いをしている者に対して言いました。
「この方に災いしてはなりません。
あなたもこのように災いしている限り、
御自身救われることができません。
法を悟って、あの光の世界に救われなさい。
しかし正しき教えを悟ることは至難の業です。
ですから今日のご縁をもって私があなたを救います。
この方から離れて私の中に入って来なさい」と言って、
私の中に入っていただきました。
未熟な私ですけど、その方達よりは心に光が満たされております。
迷うている方は必ず闇です光を持って迷うことはできません。
明かりがないから人は迷うのです。

どうぞ私の中に来なさいと言うのは、これは愛ですね。
愛をもってお招きしますと、入って来ることができます。
大変有難いのは、私が心を開いて招じ入れない限り、
絶対に入ることはできません。
なぜかと言いますと、光の中に闇は入ることができないのです。
光の中にはどれほど深い闇であっても忍び込むことはできません。
これは自然の法です。
しかし愛をもって迎えればその闇を包むことができます。
そして、神の光によって闇を消し、
その方をあの世のふるさとへお送りしました。
それでもまだお譲ちゃんの手は動き続けておりますが、
それはこれまで何カ月か動き続けていたので、
慣性の法則で筋肉が動いているのです。

「気持ちを楽にして、心を落ち着けなさい」と言いますと、
手の動きはスーッと止まりましたね。
「もう大丈夫です、ものを言いなさい」と言いますと、
「はい、もう言えます」といって話しされたのです。
お母さんは感極まって喜びのあまり大声をあげて泣き伏しておららました。
「お母さん!!」と呼びかけて、二人で抱き合って泣いて喜んでおられました。
ほんとうに嬉しかったですね。
その夜は家に帰ってピアノを弾かれたそうです。
長い間お母さんが食事も食べさておられたのですね。
それが一瞬にして完全に治るというのはまさに奇蹟です。


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「御垂訓」

2020-08-11 00:55:59 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

ここに添付しましたお写真については特に説明は必要としないと思いますが、
お写真は一般的に云われている恩師「長尾弘」先生の後光が
カメラに収められたものです。

このお写真は恩師がイギリスのロンドンを訪問された時に後光を写す
専門の写真屋さんで写されたものです。
この類のお写真を専門用語ではキルリアン写真と言うそうです。

この時、恩師と同行された学びの友の方数名も恩師が写されたお写真と
同じ場所・条件で撮影されていましたが、皆さんとても変な色
(赤、ピンク、灰色など)と形をしていましたね。
恩師の後光のような舟形光背の方はお一人もおられませんでした。

後のご講演会で恩師ご自身がこの時写された各自のお写真を
提示しながら説明されておられました。
(ビデオにも撮影されています)

恩師の師「高橋信次」先生のご著書「心の原点」で後光について
説明されていますが、その説明によれば、ここで紹介しました恩師の
後光はその形状・大きさ・淡い黄金色・の総合判断からお釈迦様の
後光や如来様のそれとまったく同じものと判断できるかと思います。

お釈迦様やイエス様の絵や仏像には後光が描かれていますが、
今のこの世で恩師のこの様に後光が出ている方のお写真やましてや
実物を恩師以外に見たことがありません。


恩師のご著書「講演集」より

                   講演集、 一

           「過去世が蘇った例と転生の証明」


でも私の前に、そんな縁者が出て来られると、
必ずその土地の向こうの言葉で話しかけて来られます。
当時イスラエルにおられた方が現れた時は、もう立て続けにしゃべって止まらないのです。
言っている言葉は何を言っているのか分からなくても、意味は大体分かります。
他の者が話しかけても、その人には通じないのですが、私が日本語で言うとちゃんと通じます。
「あなたは私の言葉が通じますか」と言いますと、ゼスチャーで「分かります、分かります」。
「ではあなたはこの方の守護霊ですか」と聞きますと、「違う違う」と、もう日本語を
しゃべらない―――しゃべれなくなっているのです。

「違う」とおっしゃるから、「ではあなたはこの方の魂の兄弟ですか」と言いますと無言。
そして、「あなたはこの方の守護霊です。守護霊いならば、この方をしっかり守護してください」すると
「いらん、いらん」と言うので、「守護霊が守護しないとは何事ですか」と言うと、自分の胸を指して
「こいつは駄目だ」と言うのですね。
「過去は駄目だったけど、今は一生懸命精進なさっているのは、あなたが一番良く知っている筈です。
しっかり守護して下さい」と言うと、「では承知しました」と向こうの言葉で言うのです。
難儀なことに日本語が全然話せないので、「私と出会った時は、この方を支配されても結構
だけど、一般の社会では、この方にこういう現象を出さないように注意して下さい」と
お願いしたのです。

それは社会に混乱を起こすからです。
そして、今度お会いするまでに日本語を少し勉強しておいて下さいと頼んでおきました。
すると一週間経ってお会いした時、守護霊をその方に入れますと、
「ワタシー日本語少シ話セマス。
日本語ハ、ムツカシイネ」と少々日本語を話します。
「過去、どこの国に住んでおられましたか」と聞きますと、「イスラエルでございます」。
こういうことがあって三カ月後にお会いした時、これは或る会場で皆さんに向かって、
「守護霊さんに入ってもらいましょう。
百聞は一見に如かず、転生輪廻の証明になりますから」と言って、その守護霊にお願いして、
その人の中に入ってもらいました。
そうすると日本語を上手に話されます。
向こうの言葉で話してから、カタコトの日本語で「この場所に、あの世の友がたくさん
お見えになっています。
一緒だった方があります。
あなたは尊い神の光を与える力を授かっています」「私にはそういう力はありません。
これは神が与え給うたのです」そして「
今から六百年の昔、あなたさまと伝道の旅を続けました」と言います。
これはキリスト教の教えを伝えた当時の記憶が戻って来たのです。

「とても広大な土地でありました。
水を求める方々がたくさんありました。
馬、驢馬の背中に大きなカメ、皮袋をいっぱい乗せて、水を求める方々に与えた、
とても苦しい旅をした記憶がございます。
あなたはやさしい笑顔と思いやりの言葉をもって人々を導きました」と、
記憶が蘇ったら、遠い時代のことをはっきりといわれますね。
皮の草鞋と皮ひもを足にくるくる巻いたものを当時履いていて、
石ころをポンと蹴ると足がとても痛かった、という記憶まで持っていました。
そんな方があります。
生まれ変わりなどと言いますと、本当かなと思いますけど、現実にあります。
今の科学的な、この世的な見方をしますと、あら、頭が少しおかしいのと違うかとか、
面白いことを言うとるとか、そういう判断をなさる方も多いと思いますけど、これは現実にあります。
見えない世界で、こういう方は光の世界の方です。
一方、この世で間違った生活を送って成仏できず、地獄の迷える世界に落ちている住人が
間違いなしにおられるということです。


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「御垂訓」

2020-08-10 00:01:19 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生が舞台上で多くの皆様を癒されている光景ですが、
ご覧の様に恩師も癒しを受けている方々も皆さん光に包まれています。
これで癒されない病などないですよね。
光のシルエットから向かって一番右端が癒しをされている恩師のようですね。


 恩師のご著書「講演集」より

        講演集、 一

     「高級霊の言葉」


「私が(高級霊のことです)自らの過去をひもといた時、
絶対に人に明かしてはならないという重荷を、自らの肩に背負いました。
いかに過去において私が偉大な人間であっても、
今の私にそれが何の関係があろうか。
なるほど過去の名前を私が口にした時、
人は或る時はそうだったのかという見方もするであろう。

しかし今の自分が過去の自分と何の関係があるというのか。
それよりも自分の思い、行い、言葉を、説法をもって
私こそ神の御使いであるという証しを立てることのほうが大事である。
自分の日々の言動、思いをもって、又人の前では法をもって
私が本当に神の使いだという証拠を示したい。
そのほうがどれ程価値があるか分からない」
これはすばらしい高級霊の言葉です。
だから自分の過去のことを人に喋るのはおかしいことです。



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「御垂訓」

2020-08-09 00:03:42 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生が舞台上で少年を癒しておられるところですが、
ご覧のように少年の着ている洋服は視認できますが、少年の肉体は幽体離脱(肉体離脱)
しているような映像になっています。
置かれている花々も歓喜で躍動しているようです。


恩師のご著書「講演集」より

                  講演集、一

         「過去世に捉われると実生活を見失う」


今、私に縁ある人々の中で十数人の方が過去世を思い出して、
その当時、生活をしたそれぞれの国の言葉をもってお話をされます。
しかし私達はそんなことに捉われてはません。
人間の転生輪廻の証明の一つとして価値がありますが、
今世の生活に何の関係もないことです。
過去の自分が誰であったとか、過去の自分が立派な人間であったとか、
たとえ立派な人間であっても、
今生、今現在の自分がその為に道をはずれ、増長慢に捉われ、えらぶったり、
人を見下したり、人の悪口を言ってみたり、
過去世において自分より未熟だと思っていた人が今世で
立派に生きている姿を見て嫉妬して、
非難攻撃しておれば、過去世など知らないほうがどれほど幸福かわかりません。
或る先生と呼ばれている方がありました。

その方を慕って全国からいろいろの人達が訪ねてこられます。
たまたま東北地方から過去世の言葉を語る男性が見えておりました。
その日、関東地方から別の男性が日帰りの予定で訪ねてこられましたが、
先生にお会いして、どうしても今晩一晩泊めていただいて
お話を聞かせていただきたい、
このまま帰ることができなくなりました、
と予定を変更して一泊することになりました。
先生は多忙極まりない人で、その晩も他の大事な
用件を中止してそのお客様の為に時間を
つくられました。
夜、近所の奥様も見えて、
お客様の寝床を用意する為に先生の奥様と二人の男性の
お客様も含めて四名で奥の部屋へ入って行きました。
先生はこちらの客間でもう出て来るか、もう出て来るかと
待ち続けておりますが出てきません。
その間に先生がお客様の為にお風呂を沸かして待っていても、
まだ出て来ないのです。
異様な大声や笑い声が時々伝わって来ます。

一時間半は過ぎたでしょう。
待ちかねて先生がお風呂が沸いていますから入って下さい、
とその部屋へ行きますと、
何か異様な陶酔したような感じで、四人が膝を
つき合わすようにして話をしております。
これは一体どういうことでしょう、この世の常識では
考えられない出来事です。
寝床を用意する為に奥の部屋へ入ると突然、過去世の言葉が
東北の男性の方から出て来ました。
先生の奥様にも異なる言葉が出て、二人で過去世の言葉で
会話が始まったのです。
近所の奥様は感動して泣きだしたのです。
関東の男性の方も始めての現象を目のあたりに見て、びっくりと
感激で呆然となっておられました。
このようにして時間が過ぎて行ったのです。

その夜、先生は奥様に対して、この世の常識を破ってはいけない、
主人が客のために大切な用件を断って待っていたのに、
主婦の立場で「先生が待っておられるので早くお話を
聴かせてもらいなさい」と案内すべきが道である。
「一度自分の行為を反省しなさい」と注意されました。
ところが奥様にしてみると「お互いの守護霊が出て話し合うので仕方がなかった、
これはあくまで神のご意志です」と自分の正しさを主張します。
結果、その奥様は「実家に帰って反省して来ます」と言って早朝から
実家のほうへ帰ってしまったのです。
大変、人の出入りの多い先生のお宅です。

お見えになった人々は、今日は奥さんはどうされましたか、と聞かれます。
先生は「急用ができて実家の方へ帰っております」と苦しい答えをされておりました。
さてこの一つの出来事を通して、霊道現象、過去世というものは
一体どういう価値のあるものだったでしょう。
過去世が蘇り、それに捉われて実生活を見失った、先生と呼ばれる人々を
余りにも多く見聞してきました。
私達はこの肉体の五蘊を通して魂の修行をする為に生まれてきた筈です。
霊道現象の最も危険なことは、自分ができた人間である、人よりも
勝れた能力があると思いこむことです。
そして増長慢に捉われていきます。
その結果、人の言うことは耳に入らなくなっていきます。
もうこうなってしまいますと、完全に悪魔の支配下に入ってしまいます。


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「御垂訓」

2020-08-08 00:07:09 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生のご講演中を学びの友の方が
カメラに収めたものですが、演台の上の花々や恩師ご自身が光り輝いています。


 恩師のご著書「講演集」より

              講演集、一

         「過去世が蘇る」ということ


或る方から電話がありました。
私に初めての方です。
電話の中で泣きながら、胸から胃にかけて苦しくて堪りませんとおっしゃっています。
「こういう苦しみはすぐ消えます。安心して下さい」と言って電話で祈りますと、
いっぺんに治ってしまいました。
その方の姉さんが訪ねて行ったら急によくなっているのでびっくりされて、
又早速私のほうへ電話がありました。
「ご縁があればいつでも遊びに来て下さい。正しい教えには組織もお金も何も要りません」
と言いますと、一週間もしないうちにご姉妹が訪ねて見えました。
その時、私の名刺の裏によくおまじないを書いて差し上げているのですが、
それが欲しいと言われるので、10枚ほど書いて渡しました。

そうしたらその方はありがとうございましたと受け取られて、「私は遠い遠い過去から
先生からこうして受け取ったことがあります」と言われ、突然その方の口からインドの
言葉が出て来たのです。
泣いて挨拶されます。
勿論この方は日本人です。
突然にこの方の守護霊が入って来られたのですね。
インドの言葉でいろいろ話されますと、日本語がカタコトになってしまいます。
「ワ・タ・ク・シ・ハ・・・」といった具合です。
むこうの言葉はペラペラなのです。
当時のインドでお釈迦様に学んだ体験をその方が持っておられたのですね。
遠い過去に私も共に仏教を学んだ体験があります。
この方にお札のようなものを差し上げたことから、当時の記憶が突然蘇ってきたのです。
不思議なことがあるものだとびっくりしておられました。
習いもしない言葉が口の中から自然に出て来たのです。
これを守護霊の言葉とも、自分の過去世が蘇えるとも言います。


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「御垂訓」

2020-08-07 00:20:36 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生がイエス様のお話をご講演でされていた時、
恩師のお顔がこのように変貌されたものです。


恩師のご著書「講演集」より

      講演集、一

   「イエス・釈迦の原点に帰れ」


高橋信次先生は、釈迦・イエスの教えの原点に
帰れと言ってお話をなさいました。
今の仏教・キリスト教は原点から遠く離れているところがあります。
今の仏教のように、祀りなさい、拝みなさい、供養しなさいとは、
お釈迦様は一つも説いておられません。
お釈迦様は生きた人間を救う為に人が幸せになる道を説かれ、
死んだ人間のことは説いておられないのです。
今の仏教は、
生きた人間より死んだ人間のほうが主になることが多いですね。

亡くなりますと、まず枕経、そして七・七・四十九日まで参ってくれます。
また三回忌、七年忌と一人死んだらずーっと御参りが続きます。
諺にも「お前死んだらわしゃ嬉しい、
むかわり三年、また七年」というのです。
「七日七日に米五合」といって、
昔は一回お坊さんにお参りしてもらうと
その都度米五合あげたのですね。
それはお坊さんの収入になっているわけです。
人が死んだらそれがお坊さんの収入源ですが、
お釈迦様はこんなことはおっしゃっていない。
先日四国に行って聞いた話です。
四国の或る有名な札所の寺です。
そこでお寺の偉い坊さんの会議があったそうです。

その村の人がたまたまお寺の修理に行っていまして、
山にある寺なので泊り込んで修理に励んでいたのです。
今晩は偉いお坊さんの会合があるから有難い話を聞こうと思って
床下に潜って聞いたというのです。
どんな有難い話をされるのかと思っていましたら、
「うちの寺は今年は大豊作であっての」
とか「うちは不作だった」とか聞こえて来たので、
坊さんが米を作るのはおかしいと思い、よう聞いてみると、
檀家で死人がたくさん出るのが豊作、葬式の少ない
お寺が不作と言ってるいのです。
それを聞いてびっくりしてしまいまして、
ほんとうに怖いですと話していました。
こういう話をすること自体が悪口になるのですね、
そして私の心は曇ります。
これはお釈迦様の教えの原点からはずれた
一例としてとりあげました。
お釈迦様の言葉として聞いて下さい。




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「御垂訓」

2020-08-06 00:54:16 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生のご講演の際に起きた不思議現象ですが、
恩師ご自身の説明によりますと、これは幽体離脱(肉体離脱)現象だそうです。
カメラのブレではない証拠には同じ被写体である恩師の前の演台は少しもブレていません。


 恩師のご著書「講演集」より

              講演集、 一

        「人の悪口はいっさい止める」


原因を作れば必ず結果が現れて来ます。
結果があれば必ず原因があるということです。
原因なしに現れる結果は何ものもありません。
結果があれば必ず原因がある筈です。
お釈迦様は、因縁因果の法則を説かれました。
原因・結果は二つの言葉ですけど、これは一つのものだったのです。
切っても切れない一つのものです。

一つだから絶対に離れることができない。
もし間違った原因を作れば必ず間違った結果を生みます。
苦しみの原因を作れば、苦しみの結果はこれはもうちゃんとくっついているのです。
だから避けることはできない。
その代わり、有難いのは、喜びの原因を作れば、同じように
喜びの結果がちゃんとついて
いることです。
これがはっきりと理解できないと、私達は平気で誤りを犯します。
人の悪口を言えば、必ず自分が人から悪口を言われます。
これはもう付きものです。
自分が悪口をいう原因を作れば、きっと悪口という結果が帰って来る。

「内緒ですよ、人に言ったらあきませんよ」とヒソヒソと言えば余計に早い。
だから悪口は言わないことです。
人の悪口を言わない日々を過ごしますと、日常の心がとても楽になります。
私も今迄過去の話の中で、よく誤まった宗教家の話し、
間違っているお医者さん、
或いはお坊さんとか神主さんの間違った例をとりあげて話しましたが、
やはりこれは悪口になります。
だから今後はこういう話はいっさいすまいと思っております。
そして人の悪いことはいっさい思うまい、言うまいと決めました。
そうしますと、今迄に体験しない程、心が楽で安らかです。

どうか皆さんも、人に悪いところがあっても言わないことを
生活の中に実践してください。
あっても言わないことです。
常に心に関するお話をさせていただきながら、
自分が率先して人の悪口を言っていましたら、お話になりません。
人が話したことを私がしゃべっても、
やはりこれば私が言った話になります。
世の悪いことはいやという程、日々の生活の中で見てもきましたし、
人からも聞かせてもらいました。
これも学びの一つの方法になるのでしょうが、そういうお話よりは、
自分を正すことのほうが大事ですね。


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「御垂訓」

2020-08-05 00:13:49 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真はその昔、お釈迦様が大悟される前に肉体行をされていた前正覚山です。
(現地語でプラークボディー山)
手前の川は尼連禅河(現地語でネランジャ河)です。


~ 恩師の御著書「講演集」より ~

              講演集、 一

     「母娘の責め合いと反省の功徳」


先の続き・・・

この母娘の場合、
娘さんのほうも親に背いて親を苛めることを自覚できていないし、
又親もなぜこの子は自分を責め苛めるのが分からなかったのです。
ところが反省してこの子の上に思いを致し、
この子は辛かっただろうと懺悔した時、
悪いことをした、
可哀そうだったという思いに目覚めてきたのです。
お母さんが、その思いで娘さんの前に手をついて詫びたら、
娘さんの心も開かれたのですね。
毎日が地獄だったのがいっぺんに変わってしまって、
忽にして極楽の世界です。
信じられないことが起こります。

これを反省の功徳といいます。
反省させてもらい、自分の至らないことに目覚めますと、
今迄の憎い、許せない、
いやらしいと思った心が忽にして消えてしまいます。
自分の過ちに目覚めるのが反省ですね。
幼い頃から悪いことをしたら「お前反省しろ」と言われたものですが、
そういう意味の反省ではなくて、自己を常に振り返って、
過ちはなかったか、道をはずれてはいなかったと、
自分自身の過去を追求することです。
これが幸せに目覚める一つの功徳です。
自分が正しいと思う間は絶対に救われません。
悪いことをした、申し訳なかったと気付いた時に、
自分自身が救われます。


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「御垂訓」

2020-08-04 00:00:31 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

添付のお写真は恩師「長尾弘」先生のご講演に賛同して
生けてあったユリが垂直に立ち上がったものです。
釣鐘状の花は(ユリなど)はお写真のようには
咲かないことは皆様先刻ご存じの通りです。


 ~ 恩師の御著書「講演集」より ~

            講演集、 一

     「母娘の責め合いと反省の功徳」


先の続き・・・

その翌日のこと、夕方から雨が降ってきた。
娘さんは例の宗教の所に出掛けており、
洗濯物が干したままなのですね。
ああこれを取り込んでおかないと濡らしたら叱られると思って、
取り入れていた時に、
その意地の悪い娘さんの幼い頃がふと思い浮かんできたそうです。
子供さんが三人ありまして、
上の二人は嫁に行って下の娘が養子を取って跡取りです。
この人の幼い頃はちょうど姑さんの具合が悪くて
看病に多忙な時だったそうです。
末娘は女中さんに任せっきりで、
自分は姑さんの世話についていた。
「ああ、あの子を抱いて育てることがなかったなあ」と、
その思いが蘇ったというのです。

上の子二人は我が胸に抱いて育てた、
あの子は抱くこともできなかった、
それでも姑さんの看病に精一杯尽くしたんやから
これは正しいと思っていたけど、あの子の立場に立ってみると、
どんな思いをしただろうか、
母親に抱かれることもなく寂しく辛かったのと違うだろうか、
と気付いてくると、もう末の娘に対して、しまった、悪い事をした、
申し訳ないことをした、と可哀そうで、
涙がこぼれてたまらなくなってきたそうです。
すると、そこへ娘さんが帰って見えた。
お母さんは仲の悪い娘さんの前に手をついて詫びられたのですね。

あなたの幼い頃、抱いてあげることも遊んであげることもできなかった。
寂しいかったのと違うかと泣いて話されると、娘さんも、
私だけ、なんで上の姉さんのようにしてもらえんのかと思って
ずーっと寂しかった、辛かった」と娘さんもワンワン泣き出して、
そしてお母さんが「可哀そうなことをした、堪忍して」と詫びますと、
娘さんも「今迄の親不孝を許して下さい。
私は今迄言えなかったのです。
これからは本当の親孝行をさせて下さい」と言って、
親子で抱き合って泣いて詫び合ったそうです。

このことがあって、お母さんから電話がかかって来ました。
今まで張り詰めていた心がほどけて、変な気持ちだと言います。
「心の中の芯が抜けてしまったようです。
しかし有難いです」とおっしゃっています。
この子はいやらしい子だ、敵の生まれ変わりだという一心だったのが、
自然に消えて、
何とも言えないと泣いて話しておられました。


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「御垂訓」

2020-08-03 01:00:55 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

十一年間歩くことができずに車椅子の生活をしていたお写真の青年が
恩師「長尾弘」先生に完全に癒され翌日自転車で癒しの会場にこられて
癒された喜びの感動を皆さんに報告されているところです。
イギリスロンドンにて。


~ 恩師の御著書「講演集」より ~

             講演集、 一

      「母娘の責め合いと反省の功徳」


神戸にあるお城のような大きなお屋敷で、
一度入ると今度は出口が分からんようになる程の大邸宅があります。
普段使うのは勝手門、
門から100メートル程離れた所にその勝手門があり、
土塀をめぐらしてある。
そんな大きなお宅ですけど、住む親娘は敵同士のように仲が悪い。
六十近いお母さんと、四十前の末娘さん、
その娘さんが養子さんをもらって住んでおられるのです。
お孫さんは小学校の小さい子です。
お母さんが言うには、「この娘は敵、
前世の敵が自分の腹を借りて生まれて来たのか思う」
それ程、親を苛めるのだそうです。

箸がこけたのまで、
お母さんの心掛けが悪いからだと言って責める始末。
その娘さんは妙な信仰に凝って、お母さんのすること為すこと、
またお母さんの出掛けた先まで全部、
宗教の所に行って連絡するのです。
そうすると、宗教の神様が「そりゃ、お母さんが悪い」と言う。
それをまた家でお母さんを責める材料に使う。
親にしたら堪らんです。
よく嘆きの相談に来ておられましたので、
「その娘さんが信仰に行っていたら、
お母さんも一緒に行ってあげなさい」と言いますと、
「妙な霊にとりつかれると怖い」とのこと。
「本当に愛があれば自分を捨てて、
その娘さんを救ってあげる為にも
共に行ってあげるのが愛ではないでしょうか」と話したのです。

しかし「そこまではようしません」とおしゃいます。
そうして自分はいつも正しいと思うから
苦しいのだという話をさせてもらいました。
自分を主として見た時、必ず苦しみが生まれます。
なぜかと言うと、自分を主として見ると、
この五感を通して見ることになります。
目、耳、鼻、舌、身ですね。
この五感は私達の肉体を保護保存する為に与えられた道具です。
どれ一つをなくしても生きるのが困難です。
この五感を通して自己中心に見て判断すると、
間違う場合が多いです。
必ず自己保存と自我・我欲つまり
「業」に捉われた見方になるのです。
だから自分を中心として見た時、必ず苦しみの中にいます。
この苦しみからのがれる為には、
常に相手の立場に立って自分から離れて見ることです。

相手の立場に立つ、善意なる第三者の立場、
或いは私達を生かして下さる神様の立場にたって、
自分と相手とを観察していく時、
自己保護から離れた間違いのない見方がしていけるようになるのです。
私達は自分が正しいと思って生きていますが、
自分を反省して相手の立場で考えてみますと、
とんでもない迷惑をかけている場合があるのです。
自分より相手はどうだったかと思う癖を常につける練習をした時に、
物の見方が変わってきます。
そのように話をさせていただきました。


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