生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアリングとLA設計(8) 工学部は何を目指すかという場でのメタエンジニアリング(その2)

2013年09月02日 09時16分53秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts

第5話 工学部は何を目指すかという場でのメタエンジニアリング(その2)

 工学部は何を目指すか、中島尚正編、東京大学出版会(2000)には、多くのことが書かれている。しかし、メタエンジニアリングの見方からは、やはり大きな疑問を感じざるを得ない。(その1)では結論の部分を引用して、メタエンジニアリングとの関連について述べた。(その2)では各論について検討をしてみよう。


第2章のタイトルは、「21世紀の社会と環境に責任を持つために」であり、ここにメタエンジニアリングとの共通点をみることができる。2,2項は、「社会の人と活動を支え、文化とともに歩む」とある。その中で、工学の概念に関する記述にはこの様にある。(P124からの引用)
「・世界の安定化に貢献する工学の概念
 この様な課題に対して、工学の果たす役割はいったいどういうところにあるのだろうか。まず第一の課題として、世界の安定化のメカニズムの理解を工学の分野でも進めることである。安全保障問題は、これまで社会科学系、とくに政治学や経済学の研究対象であった。しかし、これからの工学では、国際社会全体に起きている変化を理解して初めてその役割を論ずることができる。とくに、自然科学/工学研究者を志す学生や研究者が、価値観や哲学の重要性を認識し、みずから研究対象や開発成果が、国際社会の安定化にどのような意味を持つかを考えるような教育が必要となる。」
この記述は、メタエンジニアリングの基本思想に一致をすると考えられる。ここでは安全保障問題が唯一の例として挙げられているが、地球環境問題、原子炉の安全性と信頼性の問題、水の問題など枚挙に事欠かない問題が山積している。現在、これら多くの問題は国際会議の場でも、南北問題や経済問題に阻まれて有効な結論を得ることが困難な状態にある。しかし、何れの問題についても、最終的に根本的な解決策を考えて実行するのは自然科学者と工学者と技術者、つまりエンジニアリングによる社会への実装である。正に「これまで社会科学系、とくに政治学や経済学の研究対象であった。しかし、これからの工学では、国際社会全体に起きている変化を理解して初めてその役割を論ずることができる。」ということだと思われる。しかし、残念なのは、「自然科学/工学研究者を志す学生や研究者が、価値観や哲学の重要性を認識し、・・・」の部分が抽象的な表現でおわっていることである。この前提条件をもっと具体的に追及して、かつ実行しなければ、この議論を力のあるものにすることは不可能であろう。その機能を担うのが、メタエンジニアリングの一つの基本機能であると考える。

 更にこの議論を進めるならば、このことは短期的には世界の安定化に貢献するということだが、実は21世紀は更に深刻な問題に直面している。それは、人類の文明の岐路に差し掛かっている現状認識から来る。多くのイノベーションが急速に世界全体に広がって行き、その速度も複雑性も増加の一途である。しかし、哲学的・生物学的に見て間違いなく正しい方向に向かっているのだろうか。そのような設問に直面すると、最早安定化云々を越えて、人類社会の文明の向上と持続性という命題にまで行くべきであるように思う。
 なを、先の第3場で示された「提言」は、その後内容がより充実されて、「震災後の工学は何をめざすのか、東大工学系研究科、内田老鶴圃発行(2012.7)」として出版された。



 この中では、想定外の事態に対する脆弱性が問題発生の源であるとして、「レジリアンス工学」の創成が重要視されている。(P340からの引用)
「今回のような震災に立ち向かうためには、災禍の損害から早期の機能回復が可能な技術社会システムを実現するための、レジリアンス工学とも呼ぶべき新分野を確立することが必要となっている。これまでの工学が、どちらかというと「想定内の範囲内だけで考える」工学であったのに対してレジリアンス工学では「想定外のことが起きてもなんとかなるようにする」ための工学である。今回の(震災の教訓として、工学はこうした課題にも取り組むことが必要である。)
と述べられている。更に、その章では、「緊急対応工学の創成」という節が設けられている。

 このことは、もちろん必要なことで、何故今までそのような分野が工学として存在しなかったかの疑問が生じた。例えば、航空機用エンジンの設計の際には、この「想定外のことが起きてもなんとかなるようにする」ための設計は、いやというほど色々な工夫を盛り込んでいる。これは、広い意味での予防設計と言える分野かもしれない。そして、その設計のためには、先に述べたように、文化や文明や哲学への絶対的な理解が必要であり、そこにDesign on Liberal Arts Engineeringの原点がある。

ここまで色々な例を述べてきた。結論として感じることは、過去の経験から工学やエンジニアリングが専門知識の範囲だけでの行動が大いに問題有りということだ。その為に、もっと視野を広げよう(俯瞰的)とか、連携を深めよう(境界領域)といった動きが始まったのだが、それ自身がまた専門領域になってしまうと云う現状が見えてくる。このことが過去数十年間繰り返されてきているように思える。
 この動きを変えるには、新たな発想としてのメタエンジニアリングが必要であり、それに基づく広義のデザインが、Design on Liberal Artsと考えるわけであるが、いかがなものであろうか。


メタエンジニアリングとLA設計(8) 第6話 メタエンジニアリング設計技術者の育成

2013年09月02日 09時15分37秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts
第6話 メタエンジニアリング設計技術者の育成

・知識・経験・知力(知識+経験=知力)

LAE(Liberal Arts Engineering)的設計に必要な知力を如何にして身に付けてゆくか。
 日本の戦後教育は知識偏重で、知力が足りないとよく言われる。設計は、膨大な情報から一つの特定された解を形に表すもので、知識だけではどうにもならない代物であり、知力が基本要素と思う。知力とは、ある言い方をすれば、「出来るだけ少ない追加の情報で、新たな正しい判断が出来る能力」である。つまり、アリストテレスが提唱したフロネシスである。アリストテレスが知を五つに分類したうちの、直感的に原理を把握するヌース(知性)、真理を見極めるソフィア(智慧)、客観的知識としてのエピステーメ、物をつくりだす実践的知識としてのテクネ、の4つは教育現場でも良く取り上げられている。しかし、「豊かな思慮分別を持ち、一刻ごとにかわるそのつどの文脈に応じた最適な判断や行為を行うことを可能にする」能力であるフロネシスについては、あまり語られることは無い。知識を学ぶことは容易であり、それを基に知性は磨かれるであろう。しかし、知力を身に付けることは経験を積む以外には中々に難しい。設計技術者である私は、一つの手段として「Whyの追及」をやって来たように思う。

Why(何故)を常に考えて、不適切な改善や変更を無くす。聊か詳細に過ぎるが、航空機用エンジンの設計担当時代に記したことを引用する。
 「設計変更や工程変更が不適切であったために発生した不適合が散見される。これは、変更した人が「なぜ、従来そうなっていたか」を十分に理解していない事に起因すると思われる。特に、あまり重要でない部品にこの傾向が強く見られるが、重要でない部品であっても、エンジンの機能部品の場合には大事故に繋がる場合がある。実際に起こったことなのだが、ベアリング潤滑用のオイルポンプ内のひとつのO(オー)・リングの寸法公差の範囲内での変更により、ヘリコプタが海面着水で動けなくなった事故例を説明に使うことにしている。」

江崎玲於奈さんが講演で、「20世紀はWhatの追求の時代でしたが、21世紀はWhyの追求の時代だと思う」とおっしゃっていました。Whatばかりを追い求めると、人類撃沈の恐れがあるからでしょう。
 私は、新開発の設計ばかりをやってきましたが、ある時に何時の間にか設計変更をされた部品(小さな機能部品)のあることを知ってびっくりしたことを思い出します。その時は、それが原因で大きな事件が起きていました。技術部長の時代に何度もいっていたことは、「設計変更をする者は、オリジナル設計者よりも能力が必要。そうでないなら、なんとしても変更前にオリジナル設計者の意図を確かめること」でした。
 設計変更や工程変更をする場合には、極力 元の作成者の意図(Why)を調べること。それが不可能な場合には、なぜそうなっているのかをよく考えること。一見、無駄があるような設計や工程にも、それなりの技術者の意図があるものと信じることです。改定理由を示す伝票の類に、「何故改定をしたかの理由」をきちんと記述する習慣を身に付けること。「誤記訂正」と書いてあったのでは、後の人に何も伝わらない。

昔の話ですが、Rolls-Royce 社との共同開発では、お互いにDesign Scheme(本来の設計図であり、製造用の図面ではない)を見せ合い、議論をした。そこには、寸法を決める際のWhyが常に文章なりデータで書き込まれていたので、私はこのDesign Schemeというシステムを全面的にプロジェクト全体で適用をした。一見、製造用に製図された図面との重複があるように見えるのだが、後者では「Why」は全く伝わることは無い。しかし、現場を離れて十年後に、この習慣が全く忘れられたことを知った。
Whyを知らずして失敗をした工程変更の例は、JTOの話(核物質の臨界事故)が有名だが、鋳造されたタービン翼のオーバーブラスト事故なども同じ原因(最初の設計者の意図が分からずに、無駄と思い込み ある鋳物形状の部分を取り除いた)だった。設計技師とは、「Whyを考える人」といってよいと思う。


・技術ノウハウはWhyを蓄積する(What&HowとWhyの違い)

WhatとHowとWhyは混同しがちだが、全く違うものだとの強い認識が必要です。
私は、20年間新エンジンの設計に従事して、当時では国内で唯一人の実用された商用ジェットエンジンのチーフデザイナーだと思っていた。技術者にとって常に一番大切なことはWhyだと思う。しかし、最近はWhyが軽視されており非常に危険な状態にあると感じている。
 私が設計の現場を離れてから20年以上が経ったが、20年の間にWhatとHowはずいぶんと変わったと思う。しかし、Whyはそんなには変っていない。
 設計や技術に関する、ノウハウや標準化が形式知化のために進んでいるが、WhatとHowに捉われているように思える。Whyを引き継ぐ事が重要で、Howは寿命が短い。極端な場合は新たなエンジン毎に新しいものが導入されるくらい進歩が激しい。古いHowに頼っていては良い設計はできない。反面、Whyが本当に分かっているのでしょうか、といった疑問に多くの場面で遭遇してしまう。
従って、HowとWhyの認識の区別が重要になるわけです。私は、設計課長時代にこのためにAero Engine Design Standard 「AEDS」を作りました。中身は、「何故そういう設計になるのかの理解」を重視して、計算方法などはむしろ設計者本人次第として敢えて標準とはしませんでした。残念なことに、この伝統も10年ほど前に倉庫の奥で消えてしまいました。

糸川英夫さんは、著書「日本創生論」のなかで、こう断じて居ます。「Howばかりで、WHYの無い国」の文中からの抜粋。



「「なぜ」と問う姿勢が、伝統的に欧米人の思考法の基盤になっている。これに対して、日本的思考法の基盤は、「いかにして」(How)である。たとえば、日米構造協議にしても、日本側は相手方の矛先をいかにしたら(How)うまくかわせるかに終始して、なぜ(Why)このような問題が起こってきたかにかかわる部分はすべて素通りしてしまう。」

再び、過去の文章を引用する。
「設計の品質の低下を嘆く声を現場でよく聞かされる。開発のスピードは上がったが、同時に設計品質も向上したのだろうか。このところ、設計品質の確保は設計審査の強化や10個のトールゲート制度などのチェック・システムの開発と管理に重点が置かれており、肝心の創り込み技術の向上は、かなり手薄になっているように思える。
 設計はHowではなく、Whyであり、Howばかりが上達した計算の達人には正しい品質の設計は期待できない。設計者個人の創り込み技術の育成はどのように行われているのであろうか。かつてVプロジェクトの開発設計時代には、欧米各社の開発設計技術を日常的に取り込みAEDS(Aero Engine Design Standard)に纏め、若手の設計者には先ずそれを学んでもらった。また、中堅の設計者はAEDSを作ることにより、自らの技量をブラッシュアップしてもらった。今ではAEDSは電子化こそされたが、長期に亘って改定や増補はされずに興味を持った人が歴史の遺物として時折覗くだけのものになっている。WhatとHowとWhyの違いを良く認識して、「技術ノウハウの蓄積はWhy」を徹底しければいけない。」