生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(138)「解釈学の構想」

2019年10月12日 09時10分57秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(138)

TITLE: 「解釈学の構想」
書籍名;「解釈学の構想」[1984]
著者;シュマイエルマッハー 発行所;以文社
発行日;1984.5.1
初回作成日;R1.10.11 最終改定日;

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。



 シュマイエルマッハーという名前には、あまりお目にかかることはない。しかし、メタエンジニアリングにとっては、なかなかに面白い人物のようだ。Wikipediaの冒頭の紹介記事には次の様にある。
 
『フリードリヒ・ダニエル・エルンスト・シュライアマハー(ドイツ語: Friedrich Daniel Ernst Schleiermacher, 1768年11月21日 - 1834年2月12日)は、ドイツの敬虔主義の影響にある神学者・哲学者・文献学者。日本語ではシュライエルマッヘル、シュライエルマッハー、シュライアーマッハー、シュライアマッハーとも表記されるが、日本シュライアマハー協会は、原音に近い簡明な日本語表記として「シュライアマハー」で統一しようとウェブサイト上で提案している。』

 彼の名前に出会ったのは、中央公論の2019年8月号の特集記事「文系と理系がなくなる日」の中の佐藤 優の文章の一節だった。「シュライエルマハーの言説」と題して、彼の著作の中から引用をしている。内容は、大学と学問のあり方についてなのだが、その内容は別途紹介することにして、この書は、彼の思想の原点になった「解釈学」を先ず理解することにした。
 
 彼は、もともとは神学者だったのだが、当時のカトリックの教義のもとである聖書の解釈に大きな変更を加えた。解釈学の「序論」は、次の言葉で始まっている。
 
『聖書の解釈という最も限られた目的から出発することにすること。』(pp.73)
 さらに続けて、『霊感的解釈に関するカトリック教的教説。しかし何故に彼らは、その解釈のために、聖職者のみを採用するのであろうか。(中略)聖書は、その特殊な性質に応じて、一つの特殊な解釈学をも有するのではないか。』(pp.73)
 
つまり、専門家による学問の囲い込みや、その弊害について述べようとしている。
 そして、『特殊はただ普遍によってのみ理解されうる。』(pp.76) として、解釈学の説明を始めている。

『(a) 解釈学に関する通常の見解は、共にーつの全体を成してもいないものを結び付け、そしてそれゆえに、余りにも多くを包括しすぎる。他者に対して理解を表明することも、やはり再び表現することであり、それゆえに陳述することであって、したがって解釈学ではなく、解釈学の対象である。この誤解は、解釈学という名称から由来している。』(pp.76-77)
つまり、「解釈」というものの純粋かつ根本的な意味(定義)を、まず求めているように思われる。
 そして、「誤解」、「理解」、「分析」について語っている。これらを通じて、『解釈は技術である』(pp.77) と明言している。「技術」であるということは、正しい知識と論理に基づいて、新たなものを創造するということなのだから、「正しく解釈する」や「新たな解釈をする」ことは、確かに技術と云える。

 語義は、いかにして捕捉されるのか。如何にして正しく理解することができるようになるのか。この命題に対する説明を、彼は幼児のモノの名前を覚えることから始めている。

『連関と、特殊なものの比較によってのみ、人は内的単一性に達する。その内的単一性は、直観にとっては、あらゆる特殊の内に現示しうるものである。しかし、特殊なものの全体性は決して獲得されえないのであって、それゆえにこそ目下の課題は、無限の課題なのである。』(pp.94)というわけである。
この言葉は、例えば幼児が「犬」をきちんと認識できるようになる過程を示しているように思う。犬を正しく認識しても、犬に関する全体的な知識は持ち合わせることはない。

さらに、「単語の単一性」については、多くの民族の言語の歴史から、次のような段階の変化を示している。
 
『それゆえに、どんな言語せよ、或る言語がその全目標に到達するには、三つの時期があることが明らかになる。(1)その言葉が、自らの単語の単一性を未だ明噺には意識していない時期。(2) 意識が、その言語に完全に透入した時期。⑶この充実が、再び混乱と誤用を生み出す時期。
かくて、それにもかかわらず単語の単一性もまた、或る歴史的なものであって、その開花期を有している。』(pp.96)
彼の目的である「聖書」の解釈についていえば、彼は、⑶の時期に来ていると言いたいのであろう。

 この発展時期の段階にしたがえば、「辞書」の記述も、必ずしも正しいものではない。その時代のもっとも使用頻度が高いものを示しているにすぎないというわけであろう。

 「解題」と称して、古代ギリシャ時代からの解釈学を纏めているが、その中ではシュライエルマハーのこのような業績を次のように評している。
 『個別的な解釈術から普遍的な解釈学へという近代的な歩みを遂げてゆく中で、その転向の決定的な意義と役割を果たしたのが、シュライエルマッハーの解釈学的構想である』(pp.139)

 このことを通じて、少なくとも彼の著作が厳密な言語の使い方の元に行われていることは、理解される。そのことは、次の著書である「翻訳」につて明らかになる。そして、その後に初めの問題の「学問と大学」についての著作をあたることにする。