メタエンジニアの眼シリーズ(139)
TITLE: 「翻訳のさまざまな方法について」
書籍名;「思想としての翻訳」[2008]
著者;シュマイエルマッハー 発行所;白水社
発行日;2008.12.5
初回作成日;R1.10.11 最終改定日;
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
中央公論の2019年8月号の特集記事「文系と理系がなくなる日」の中の佐藤 優の文章の一節、「シュライエルマハーの言説」と題して、彼の著作の中からの引用を精読する前に、シュライエルマハーの2冊の著作を読む羽目になった。それらを読んで気づかされたことがある。
われわれは、現代の海外著名人や過去の偉人の著作を多数読み、そこから何かを得る。しかし、それは、本当に彼らの言説を正しく理解しているのだろうか。シュライエルマハーの「解釈論」と「翻訳論」を読むと、そのことが分かってくる。
この書の副題は、「ゲーテからベンヤミン、ブロッホまで」となっており、その時代の哲学者などが残した翻訳に関する著作を集めている。編訳者は三ツ木道夫。その中に、表記のシュマイエルマッハーの文章がある。
シュマイエルマッハーの著書の2冊目。1冊目の「解釈学」に続くテーマで、翻訳の技法に関する著書になっている。この頃、彼はプラトンの原書を四半世紀にわたって翻訳していた。古代ギリシャと近代ヨーロッパでは、あまりにも生活環境が異なる。まして、プラトンの表現は難しい。それらを乗り越えて、読者に真意を伝えるのは、どのような翻訳が良いのかといった内容になっている。
冒頭には編訳者による彼の紹介記事がある。「宗教論(1799)を書いた神学者・宗教家」、「一般解釈学の始祖」、「教育学者」そして、「プラトン翻訳(1804~1828)」の著者としている。
この書は、「ベルリン王立科学アカデミーで1813年に行われた講義」を表しており、次の文で始まっている。
『私たちは、ある言語の言説が別の言語へ移し換えられるという事実を、またそれが多様きわまりない形をとるのを、いたるところで目にします。一方では、もともと地球の裏と表ほど隔てられている人々までもが、これをつうじて触れ合うことができ、また数百年前に死滅してしまっている言語が産み出したものでも、ある言語に取り入れることができます。しかし他方で私たちは、一言語の領域を越え出なくともこの現象に出会えるとは言えないでしょうか。』(pp.25)
同じ国民でも、部族によって言葉が異なり、正しい理解を得るのは難しいと、解釈学の続きのような表現がある。
『まったくの同国民でありながら考え方、感じ方が違うため、私たちはその他者の言説をまず翻してみなければならない、そんなことはしばしばではないでしょうか。つまり、私たちは同じ語を口にしているのに、他者の口に上るとまったく別の意味をもってしまう、そうとまで言わなくともある時はそれより強い意味を、ある時は弱い意昧をもつのではないかと感じる、あるいは、その人が言ったのと同じことを表現するのに、自分ならまったく別の語や言い回しを使うだろうと感じる場合です。私たちが自分でこうした気持ちをより詳しく規定し、これをとくと考えてみると、どうやら私たちは翻訳をしているのです。』(pp.26)
つまり、自分自身の言説でさえ、それを本当に自分のモノにするためには、翻訳が必要というわけである。
外国語を翻訳する際に、事実を伝える新聞時事や旅行記の翻訳者は、通訳者と見なすことができる。しかし、真の翻訳者はそれとは異なる。
『逆に表現の中で書き手の独自な物の見方や結び付け方が優勢になってくる、つまり自発的に選びだされた、あるいは印象に因るような、何らかの秩序に従う度合いが高まってくると、すでにその仕事は芸術という高次の領域に入り込んでいき、そして翻訳者もまた、自分の仕事に別種の能力や技巧をつぎ込まねばならず、通訳者とは違った意味で著者とその言語に精通していなければなりません。』(pp.28-29)というわけである。
さらに、交渉事の翻訳には、もっと上の能力が要求される。
『起草の段階からすでにいっそうの学識と目配りが要求され、翻訳者の方もますます自分の仕事のために専門知識と語学上の知識を必要とすることになります。それゆえ階梯をこうして二段上がることで、翻訳者はいよいよ通訳者を経て、そのきわめて独自な領域、学芸が産んだ精神的産物へと上昇していくことになります。』(pp.29)
さらに、学芸に関する領域では、事柄よりは思想が言説の主であり、さらに上の能力を要求される。つまり、こういうことになる。
『自由で高次な言説とは、それゆえ、ふた通りに理解してやらねばなりません。言説は言語のもつ諸要素 からできているのですから、ある意味ではその言語精神から生じ、この精神によって拘束され条件づけられたものとして、また言葉を発する人間において生命を得た表現として理解されねばなりません。他方、言説とは言葉を発する人間の心情から生じた行為としても、まさにその人という存在からのみ生まれ説明のつくものとしても、理解されねばなりません。この種の言説が理解されるのはいずれも、語の高次の意味においてであり、つまり言説のこうした二つの関係がともにあり、また真の関係においては相反するものだということが把握され、その結果二つのうちのどちらが全体もしくは個々の部分で優勢かが知られる時なのです。
』(pp.33-34)
さらに高度な翻訳については、
『さて、それでは対立する翻訳方法はどんなものでしょうか。つまり読者に苦労や骨折りを要求しないまま、魔法のように著者を読者の目の前に出現させ、著者が読者の言語で書いていればこんな風だろう、とばかりに作品を示そうという方法です。これこそが真の翻訳者に向けられねばならい要請であると明言されることも多く、・・・。』(pp.54)
それらを突き詰めると、このようになってしまう。
『言ってみればこの目標、つまり著者がもともと翻訳者の言語で書いていたかのように訳出するという目標は、単に達成できないばかりでなく、それ自体が空疎なのです。というのも言語の形成力の存在、またこの力がどれほど国民の独自性とーつになっていることか、それを認めた者はこう言わざるを得ないからです。すなわち、いかに優れた人間といえども知識や知識全体を描き出してみ せる能力は、主にその言語と共に、また同時に。言語をつうじて身につけるものなのだ、と。』(pp.56)
この書は、さすがにドイツ人と言わざるを得ない正確さで、翻訳の技法を示していると感じる。内容は、まさしくメタ翻訳ということでした。
TITLE: 「翻訳のさまざまな方法について」
書籍名;「思想としての翻訳」[2008]
著者;シュマイエルマッハー 発行所;白水社
発行日;2008.12.5
初回作成日;R1.10.11 最終改定日;
このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。
中央公論の2019年8月号の特集記事「文系と理系がなくなる日」の中の佐藤 優の文章の一節、「シュライエルマハーの言説」と題して、彼の著作の中からの引用を精読する前に、シュライエルマハーの2冊の著作を読む羽目になった。それらを読んで気づかされたことがある。
われわれは、現代の海外著名人や過去の偉人の著作を多数読み、そこから何かを得る。しかし、それは、本当に彼らの言説を正しく理解しているのだろうか。シュライエルマハーの「解釈論」と「翻訳論」を読むと、そのことが分かってくる。
この書の副題は、「ゲーテからベンヤミン、ブロッホまで」となっており、その時代の哲学者などが残した翻訳に関する著作を集めている。編訳者は三ツ木道夫。その中に、表記のシュマイエルマッハーの文章がある。
シュマイエルマッハーの著書の2冊目。1冊目の「解釈学」に続くテーマで、翻訳の技法に関する著書になっている。この頃、彼はプラトンの原書を四半世紀にわたって翻訳していた。古代ギリシャと近代ヨーロッパでは、あまりにも生活環境が異なる。まして、プラトンの表現は難しい。それらを乗り越えて、読者に真意を伝えるのは、どのような翻訳が良いのかといった内容になっている。
冒頭には編訳者による彼の紹介記事がある。「宗教論(1799)を書いた神学者・宗教家」、「一般解釈学の始祖」、「教育学者」そして、「プラトン翻訳(1804~1828)」の著者としている。
この書は、「ベルリン王立科学アカデミーで1813年に行われた講義」を表しており、次の文で始まっている。
『私たちは、ある言語の言説が別の言語へ移し換えられるという事実を、またそれが多様きわまりない形をとるのを、いたるところで目にします。一方では、もともと地球の裏と表ほど隔てられている人々までもが、これをつうじて触れ合うことができ、また数百年前に死滅してしまっている言語が産み出したものでも、ある言語に取り入れることができます。しかし他方で私たちは、一言語の領域を越え出なくともこの現象に出会えるとは言えないでしょうか。』(pp.25)
同じ国民でも、部族によって言葉が異なり、正しい理解を得るのは難しいと、解釈学の続きのような表現がある。
『まったくの同国民でありながら考え方、感じ方が違うため、私たちはその他者の言説をまず翻してみなければならない、そんなことはしばしばではないでしょうか。つまり、私たちは同じ語を口にしているのに、他者の口に上るとまったく別の意味をもってしまう、そうとまで言わなくともある時はそれより強い意味を、ある時は弱い意昧をもつのではないかと感じる、あるいは、その人が言ったのと同じことを表現するのに、自分ならまったく別の語や言い回しを使うだろうと感じる場合です。私たちが自分でこうした気持ちをより詳しく規定し、これをとくと考えてみると、どうやら私たちは翻訳をしているのです。』(pp.26)
つまり、自分自身の言説でさえ、それを本当に自分のモノにするためには、翻訳が必要というわけである。
外国語を翻訳する際に、事実を伝える新聞時事や旅行記の翻訳者は、通訳者と見なすことができる。しかし、真の翻訳者はそれとは異なる。
『逆に表現の中で書き手の独自な物の見方や結び付け方が優勢になってくる、つまり自発的に選びだされた、あるいは印象に因るような、何らかの秩序に従う度合いが高まってくると、すでにその仕事は芸術という高次の領域に入り込んでいき、そして翻訳者もまた、自分の仕事に別種の能力や技巧をつぎ込まねばならず、通訳者とは違った意味で著者とその言語に精通していなければなりません。』(pp.28-29)というわけである。
さらに、交渉事の翻訳には、もっと上の能力が要求される。
『起草の段階からすでにいっそうの学識と目配りが要求され、翻訳者の方もますます自分の仕事のために専門知識と語学上の知識を必要とすることになります。それゆえ階梯をこうして二段上がることで、翻訳者はいよいよ通訳者を経て、そのきわめて独自な領域、学芸が産んだ精神的産物へと上昇していくことになります。』(pp.29)
さらに、学芸に関する領域では、事柄よりは思想が言説の主であり、さらに上の能力を要求される。つまり、こういうことになる。
『自由で高次な言説とは、それゆえ、ふた通りに理解してやらねばなりません。言説は言語のもつ諸要素 からできているのですから、ある意味ではその言語精神から生じ、この精神によって拘束され条件づけられたものとして、また言葉を発する人間において生命を得た表現として理解されねばなりません。他方、言説とは言葉を発する人間の心情から生じた行為としても、まさにその人という存在からのみ生まれ説明のつくものとしても、理解されねばなりません。この種の言説が理解されるのはいずれも、語の高次の意味においてであり、つまり言説のこうした二つの関係がともにあり、また真の関係においては相反するものだということが把握され、その結果二つのうちのどちらが全体もしくは個々の部分で優勢かが知られる時なのです。
』(pp.33-34)
さらに高度な翻訳については、
『さて、それでは対立する翻訳方法はどんなものでしょうか。つまり読者に苦労や骨折りを要求しないまま、魔法のように著者を読者の目の前に出現させ、著者が読者の言語で書いていればこんな風だろう、とばかりに作品を示そうという方法です。これこそが真の翻訳者に向けられねばならい要請であると明言されることも多く、・・・。』(pp.54)
それらを突き詰めると、このようになってしまう。
『言ってみればこの目標、つまり著者がもともと翻訳者の言語で書いていたかのように訳出するという目標は、単に達成できないばかりでなく、それ自体が空疎なのです。というのも言語の形成力の存在、またこの力がどれほど国民の独自性とーつになっていることか、それを認めた者はこう言わざるを得ないからです。すなわち、いかに優れた人間といえども知識や知識全体を描き出してみ せる能力は、主にその言語と共に、また同時に。言語をつうじて身につけるものなのだ、と。』(pp.56)
この書は、さすがにドイツ人と言わざるを得ない正確さで、翻訳の技法を示していると感じる。内容は、まさしくメタ翻訳ということでした。