ブログ;その場考学との徘徊(58)
題名;中央道笹子トンネル
場所;山梨県 年月日;R1.10.20
テーマ;何度も通う道 作成日;R1.10.30
カテゴリー5クラスの強力な台風19号が東日本を襲ってから10日後の10月20日に八ヶ岳南麓の一紀荘に向かった。335回目のドライブだった。あれこれ数えると、約700回も笹子トンネルを通過したことになる。中央道と甲州街道の二通りがあるのだが、ほぼ半々だったと思っている。しかし、あの中央道のトンネル事故以来は、90%以上は甲州街道を利用することにしている。大月から勝沼までの20号線は、全て追越し禁止区間で時間がかかるのだが、沿道の景色は何度通っても飽きない。JRの線路と並ぶこともあるので、特急あずさがゆっくりと走る姿が映れば、なお良い。
しかし、今回はやや事情が異なる。前日の夕刊に「中央道通行可能に」の記事が載った。つまり、台風で山肌が崩れてずっと通行止めだったのだ。そうなると、御殿場、河口湖経由になってしまう。「その場合には、所定の方法により料金の調整を行います」と国交省と高速道路会社の連名の通達があったので、これを頼りに向かうつもりだったが、その必要はなくなった。
一方で甲州街道は、初狩で橋げたが沈み込み通行不能が続いている。談合坂SAで尋ねると「相当迂回が必要なようです」との返事で、詳細は分からなかった。そこで、久しぶりに中央道で笹子トンネルに向かった。途中に初狩PAがある。めったによらないのだが、久しぶりに景色を眺めようと思い、立ち寄ることにした。
ここの景色は、視界が開けていて一見の価値がある。
驚いたことに、いつの間にかPA全体が改修されており、一番奥に慰霊碑が建っていた。
また、「記帳処」の建物があり、思わず中に入った。そこには、千羽鶴がびっしりと飾られている。
窓脇に折り紙が置いてあったので、一枚とって折ることにした。そして、隣にある箱に入れる。これが記帳の代わりにもなる。
横の壁には、何枚かの額があり、写真と文章が示されていた。その一枚に「設計に係わる事項」、「施工に係わる事項」などの文面があり、ゆっくり読むために写真に収めた。
写真を解読した結果は、以下の様だった。
『・設計に係わる事項
笹子トンネルの天井板は他のトンネルに比べると非常に高さの高い隔壁板を有していたことや、採用されていた隔壁板とCT鋼の接手構造では、水平方向の風荷重がCT鋼に伝達され、CT鋼が変形することから、水平方向の風荷重によって天頂部接着系ボルトに生ずる引張力は、天頂部接着系ボルトの設計において無視できない大きさであった可能性がある。他方、このような挙動は、天頂部接着系ボルトの設計で見込まれた引張力として反映されなかったものと考えられる。
また、設計計算においてはCT鋼内に配置されたボルトが均等に引張カを負担すると仮定していたが、各ボルトが負担する引張力にばらつきがあったと考えられる。これは、ボルトによっては、経年の持続荷重に対する強度の余裕を結果として小さくしたと考えられる。
・材料・製品に係わる事項
建設当時の製品カタログ、施工原理の前提条件となる施工仕様、品質管理規定の記載が明確でなかった。これは、接着系ボルトについて、削孔深さと埋込み長が一致しないまま施工された理由の一つと考えられる。
また、現在まで、長期耐久性について十分な知見が得られているとは言えないが、当時のカタログには「変質、老化の心配はない」と記載されていた。これは、長期耐久性について十分検討しないまま施工された理由の一つと考えられる。なお、耐久性に関する知見としては、たとえば今回の事故に関連するものとして、35年を超えて長期に暴露されたのちの接着剤引抜強度の試験結果が少なくとも我が国ではこれまでに見られない。また、接着剤樹脂の疲労や加水分解の程度と付着強度の低下の関係の考察に必要な知見も十分で無い。』
引張り力ばかりが書かれているが、私はむしろ振動が問題だと思う。大型車両の通過時の瞬間的な風圧により圧縮力を受けるし、音響振動もばかにはならない。確かに問題はあるのだが、当時としては、やむを得なかったのかもしれない。バブル時代の土木工事はとにかくひどかった。しかし、生涯設計に携わった私には、このような結論は大いに不満が残る。つまり、もっと根本的なことが抜けている。
それは、「なぜ、天井板が必要だったのか」と、「なぜ、当初に点検方法が決められたいなかったのか」だ。
甲州街道の笹子トンネルの方は、狭いが天井板はない。中央道も、天井板を外した後の方が快適に走ることができる。両方ともに、排気ガスの匂いで不快になることはない。天井板は、そもそも必要なかったのだ。
長期間使い続けるものは、大小を問わず設計時に点検方法を決めるべきとの私の説は、メタエンジニアリング・シリーズ第22巻の「大事故」の項目にこのように書いた。『笹子トンネルの天井板の事故について検証してみる。トンネルの天井板崩落事故に関連して、特にその維持管理について、本来ならばトンネルの設計時に行うべきであったことを考えてみる。
高速道路のトンネルの主機能は、『安全で快適な車の流れを保ち続ける』であり、この機能を継続させるには、メインテナンスの具体的な方法と、劣化に対する対応策が必要です。従って、そのいずれも、当初の設計者によって具体的な指示がなされなければならない。メインテナンス業者の一存で決められては、たまったものではない。トンネルに限らず、公共施設にはメインテナンスに関する規定があると思うのだが、それはあくまでも共通の最低限の事項であり、それに対して設計者が個別に細目を追加する必要がある。規定さえ満足していれば、事故は防ぐことができる、との考えは明らかに間違えている。
例えば、どのような人工物にも機能が正しく働かなくなる寿命というものがある。この寿命の最初に現れるところが、どこでどのような形で現れるかは、設計者のみが知ることのできることと思う。そのことが、あまりにも軽視され過ぎている。
さらに、再発防止策としては、「橋・トンネル点検義務に」として、日本経済新聞(H28.1.3)の第1面の筆頭の見出しに示された。新たな年の最初の編集である1月3日の最初のニュースなので、この新聞社が年頭にあたって最も重要と判断したものと推測される。見出しのあとの3段抜きの文章には、次のようにある。
『国土交通省は2014年度から道路や橋の定期点検を地方自治体に義務づける。5年ごとに施設の健全性を4段階で評価する全国統一基準を導入する。危険と判断すれば、通行規制を命令できるようにする。(以下略)』
ここでの問題点は、「5年ごと」と、「全国統一基準」である。「5年ごと」ということは、「次の5年間は点検をしなくても安全であることを保障する」と同意語なのだが、はたしてそのような全国統一のデータや点検技術があるのだろうか。また、「全国統一基準」はやむをえないとしても、この基準さえ守れば安全が確保できると考えてしまっては、かえって全国各地の事情によって多様に存在するケースが危険になりはしないかといった疑問が生じる。やはり、個別ケースを熟知した、最初の設計者が責任をもって点検基準を作ることまで、義務化するべきであると考える。』
最近思うことは、「今の日本は、何事においても中途半端に終わらせる」だ。すこし大げさかもしれないが、その傾向はますますひどくなっているように思ってしまう。
題名;中央道笹子トンネル
場所;山梨県 年月日;R1.10.20
テーマ;何度も通う道 作成日;R1.10.30
カテゴリー5クラスの強力な台風19号が東日本を襲ってから10日後の10月20日に八ヶ岳南麓の一紀荘に向かった。335回目のドライブだった。あれこれ数えると、約700回も笹子トンネルを通過したことになる。中央道と甲州街道の二通りがあるのだが、ほぼ半々だったと思っている。しかし、あの中央道のトンネル事故以来は、90%以上は甲州街道を利用することにしている。大月から勝沼までの20号線は、全て追越し禁止区間で時間がかかるのだが、沿道の景色は何度通っても飽きない。JRの線路と並ぶこともあるので、特急あずさがゆっくりと走る姿が映れば、なお良い。
しかし、今回はやや事情が異なる。前日の夕刊に「中央道通行可能に」の記事が載った。つまり、台風で山肌が崩れてずっと通行止めだったのだ。そうなると、御殿場、河口湖経由になってしまう。「その場合には、所定の方法により料金の調整を行います」と国交省と高速道路会社の連名の通達があったので、これを頼りに向かうつもりだったが、その必要はなくなった。
一方で甲州街道は、初狩で橋げたが沈み込み通行不能が続いている。談合坂SAで尋ねると「相当迂回が必要なようです」との返事で、詳細は分からなかった。そこで、久しぶりに中央道で笹子トンネルに向かった。途中に初狩PAがある。めったによらないのだが、久しぶりに景色を眺めようと思い、立ち寄ることにした。
ここの景色は、視界が開けていて一見の価値がある。
驚いたことに、いつの間にかPA全体が改修されており、一番奥に慰霊碑が建っていた。
また、「記帳処」の建物があり、思わず中に入った。そこには、千羽鶴がびっしりと飾られている。
窓脇に折り紙が置いてあったので、一枚とって折ることにした。そして、隣にある箱に入れる。これが記帳の代わりにもなる。
横の壁には、何枚かの額があり、写真と文章が示されていた。その一枚に「設計に係わる事項」、「施工に係わる事項」などの文面があり、ゆっくり読むために写真に収めた。
写真を解読した結果は、以下の様だった。
『・設計に係わる事項
笹子トンネルの天井板は他のトンネルに比べると非常に高さの高い隔壁板を有していたことや、採用されていた隔壁板とCT鋼の接手構造では、水平方向の風荷重がCT鋼に伝達され、CT鋼が変形することから、水平方向の風荷重によって天頂部接着系ボルトに生ずる引張力は、天頂部接着系ボルトの設計において無視できない大きさであった可能性がある。他方、このような挙動は、天頂部接着系ボルトの設計で見込まれた引張力として反映されなかったものと考えられる。
また、設計計算においてはCT鋼内に配置されたボルトが均等に引張カを負担すると仮定していたが、各ボルトが負担する引張力にばらつきがあったと考えられる。これは、ボルトによっては、経年の持続荷重に対する強度の余裕を結果として小さくしたと考えられる。
・材料・製品に係わる事項
建設当時の製品カタログ、施工原理の前提条件となる施工仕様、品質管理規定の記載が明確でなかった。これは、接着系ボルトについて、削孔深さと埋込み長が一致しないまま施工された理由の一つと考えられる。
また、現在まで、長期耐久性について十分な知見が得られているとは言えないが、当時のカタログには「変質、老化の心配はない」と記載されていた。これは、長期耐久性について十分検討しないまま施工された理由の一つと考えられる。なお、耐久性に関する知見としては、たとえば今回の事故に関連するものとして、35年を超えて長期に暴露されたのちの接着剤引抜強度の試験結果が少なくとも我が国ではこれまでに見られない。また、接着剤樹脂の疲労や加水分解の程度と付着強度の低下の関係の考察に必要な知見も十分で無い。』
引張り力ばかりが書かれているが、私はむしろ振動が問題だと思う。大型車両の通過時の瞬間的な風圧により圧縮力を受けるし、音響振動もばかにはならない。確かに問題はあるのだが、当時としては、やむを得なかったのかもしれない。バブル時代の土木工事はとにかくひどかった。しかし、生涯設計に携わった私には、このような結論は大いに不満が残る。つまり、もっと根本的なことが抜けている。
それは、「なぜ、天井板が必要だったのか」と、「なぜ、当初に点検方法が決められたいなかったのか」だ。
甲州街道の笹子トンネルの方は、狭いが天井板はない。中央道も、天井板を外した後の方が快適に走ることができる。両方ともに、排気ガスの匂いで不快になることはない。天井板は、そもそも必要なかったのだ。
長期間使い続けるものは、大小を問わず設計時に点検方法を決めるべきとの私の説は、メタエンジニアリング・シリーズ第22巻の「大事故」の項目にこのように書いた。『笹子トンネルの天井板の事故について検証してみる。トンネルの天井板崩落事故に関連して、特にその維持管理について、本来ならばトンネルの設計時に行うべきであったことを考えてみる。
高速道路のトンネルの主機能は、『安全で快適な車の流れを保ち続ける』であり、この機能を継続させるには、メインテナンスの具体的な方法と、劣化に対する対応策が必要です。従って、そのいずれも、当初の設計者によって具体的な指示がなされなければならない。メインテナンス業者の一存で決められては、たまったものではない。トンネルに限らず、公共施設にはメインテナンスに関する規定があると思うのだが、それはあくまでも共通の最低限の事項であり、それに対して設計者が個別に細目を追加する必要がある。規定さえ満足していれば、事故は防ぐことができる、との考えは明らかに間違えている。
例えば、どのような人工物にも機能が正しく働かなくなる寿命というものがある。この寿命の最初に現れるところが、どこでどのような形で現れるかは、設計者のみが知ることのできることと思う。そのことが、あまりにも軽視され過ぎている。
さらに、再発防止策としては、「橋・トンネル点検義務に」として、日本経済新聞(H28.1.3)の第1面の筆頭の見出しに示された。新たな年の最初の編集である1月3日の最初のニュースなので、この新聞社が年頭にあたって最も重要と判断したものと推測される。見出しのあとの3段抜きの文章には、次のようにある。
『国土交通省は2014年度から道路や橋の定期点検を地方自治体に義務づける。5年ごとに施設の健全性を4段階で評価する全国統一基準を導入する。危険と判断すれば、通行規制を命令できるようにする。(以下略)』
ここでの問題点は、「5年ごと」と、「全国統一基準」である。「5年ごと」ということは、「次の5年間は点検をしなくても安全であることを保障する」と同意語なのだが、はたしてそのような全国統一のデータや点検技術があるのだろうか。また、「全国統一基準」はやむをえないとしても、この基準さえ守れば安全が確保できると考えてしまっては、かえって全国各地の事情によって多様に存在するケースが危険になりはしないかといった疑問が生じる。やはり、個別ケースを熟知した、最初の設計者が責任をもって点検基準を作ることまで、義務化するべきであると考える。』
最近思うことは、「今の日本は、何事においても中途半端に終わらせる」だ。すこし大げさかもしれないが、その傾向はますますひどくなっているように思ってしまう。