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その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアの眼シリーズ(143)メタ倫理学

2019年10月27日 09時06分51秒 | メタエンジニアの眼
メタエンジニアの眼シリーズ(143)
TITLE: メタ倫理学

書籍名;「メタ倫理学入門」[2017]
著者;佐藤岳詩 発行所;勁草書房
発行日;2017.8.20
初回作成日;R1.10.22 最終改定日;
引用先;メタエンジニアリング

このシリーズは文化の文明化プロセスを考える際に参考にした著作の紹介です。『 』内は引用部分です。


 
 副題は「道徳そのものを考える」で、まさに「メタ」という言葉の意味と価値を知るのに良い書のひとつとして選んだ。
 「はじめに」では、メタ倫理学は『おおざっぱに言えば、倫理について後ろに一歩下がってあれこれ考えてみる、というのがメタ倫理学である。』(pp.ⅰ)としている。メタエンジニアリングも、「エンジニアリングについて後ろに一歩下がってあれこれ考えてみる」という言い方が、正しいのかもしれない。

 続けて「悪いこと」についての卑近な例について述べている。
『詐欺犯が悪入なのも当たり前だ。しかし現に世の中にはいじめも詐欺も存在している。彼らはそれらが悪いことだとわかっていないのだろうか。それとも悪いとわかっていてやっているのだろうか。悪いとわかっているのなら、どうして彼らはそんなことをするのだろうか。
こうしたことを考えるためには、悪いことをしてはいけないのはなぜ、どういう意味で当たり前なのか、ということを問う必要がある。そして、そうした問題を扱うのが、メタ倫理学だ。そのため、本書は倫理学を扱う著作ではあるが、「いじめは悪いことだからやめよう」などの直接的な主張を行うものではない。代わりに、本書で扱う問題は以下のようなものである。』(pp.ⅱ-ⅲ)

そして、倫理一般に広げて、『「善・悪、正・不正、~すべき、などといった倫理にかかわる言葉は、本当はいったい何を意味しているのだろうか。」「「これは善いことなのだろうか」とか「これは間違ったことなのだろうか」「私はどうすべきなのだろうか」のような倫理や道徳の問いに正しい答えはあるのだろうか。」
「正しい答えがあるとすれば、それはどうすればわかるのだろうか」』(pp.ⅲ)

つまり、「道徳的なもの」について、一歩下がって考え始めるというわけである。著者は、あえてこの書の中では、肯定的な意見と否定的な意見を併記して、結論は求めないとしている。

「メタ倫理学は何の役に立つのか」と題して、その役割を二つに纏めている。役割の第1は「議論の明確化」。議論のために、その土台を整理しておこうというわけである。捕鯨に対する賛否両論の存在について述べた後で、

有名な、捕鯨の良し悪しの議論については、
『両者の前提としている道徳の理解が違っているせいで、議論がかみあわないということがしばしばある。 たとえば、前者が「文化や時代を超えてどんな人でも従わなくてはならない共通で普遍的なもの」を想定し、後者が「人や文化によってそれぞれ違うもの、別の文化に属する人々に自分のものを押しつけてはいけないもの」を想定して、それぞれ道徳という語を用いているとすれは、二人の「捕鯨は道徳的に許容されうるか 」という議論はかみ合っているように見えて、実際にはまったくかみ合っていない。
この場合にまず考えねばならないのは、鯨を食べること自体の是非以前に、道徳は文化を超えるようなものであるのか、いい換えれば普遍的なものであるのか、である。』(pp.10-11)

 役割の第2は、「自分たちの道徳の見直し」としている。ときとして暗黙の了解としている、固定観念、偏見、先入観などでは、否定的なものが多い。そのことが、日常的な事柄に影響をしているというわけである。「何々をすべきだ」という言い方は、本当に正しいのだろうか、ということを掘り下げようとしている。

面白いのは、第9章の「そもそも私たちは道徳的に善く振る舞わねばならないのか」という命題を、次の文章で始めている。
『本書ではこれまで「道徳的な問いにはそもそも答えなんてあるのか」「そもそも道徳的に善いとはどういう意味なのか」「そもそも道徳判断とは何なのか」等々、様々な「そもそも」を論じてきた。本章では、そうした議論を踏まえつつ、最後に「そもそも私たちは道徳的に善く振る舞わねばならないのか」「そもそも道徳は大事なのか」という問題を取りあげる。』(pp.278)

倫理学には、大きく分けて「規範倫理学」と「応用倫理学」がある。前者は通常の倫理学で、何が善いか悪いかの問題。後者は、規範倫理学を受けて、例えば色々な職業の人たちが倫理的に善く振舞うには、どのようにすべきかを論じる分野としている。つまり、われわれは応用倫理学の中で、判断をして生活をしているというわけである。それは本当に正しいのか?

ここで、話は西欧に移る。プラトンの対話篇の中のソクラテスとグラウコンの対話に出てくる「キュゲースの指輪」の逸話だ。その指輪は、嵌めると透明人間になり、自由に悪事を働くことができる。そのとき自分はどうするか、少しぐらいの悪事はやってみたくなるのではないか、といった話になる。このことは、英語では「Why be Moral」問題として扱われる。
そこでは、「道徳的な良し悪し」ではなく、あることが道徳に係ることか否かになる。「経済的に」、「宗教的に」、「美的に」というときには、問題がはっきりするが、「道徳的に」といった時には、曖昧になってしまう。それを突き詰める知、「道徳的に善く振る舞うべき理由などない」という意見も出てくる。

次に『非実在論者はそもそも道徳は実在していないと考える。善いことも悪いことも本当はこの世界にはないのだ。そのためそれに従う理由も直接には与えられない。中でも道徳全廃主義者のような人々は、存在していない道徳について、さもそれらしく語ることは百害あって一利なしなので、道徳に従う理由などこれっぽっちもないと主張する。』(pp.283)
 『最後に、科学主義的な考え方によれば、道徳とは私たちが生存戦略として身につけてきた反応の一種に過ぎない。こういった考え方は、道徳の正体を暴露するという意味で「暴露論証」(debunking theory)と呼ばれることがある。 たとえば、道徳を身につけて相互に助け合う種は、他の種よりも過酷な環境で生き抜くことができたかもしれない。』(pp.283)との説を紹介している。

 それでは、理性主義に基づいて「ヒトとしの最終価値」という立場で考えるとどうなるか。「道徳は、何かの手段ではなく、それ自体が重要かつ尊いものなのだ」と感がる。例えば、「カント主義」で言われる、「人間は理性による反省の働きで、尊重に値する唯一の存在」とすると、道徳が基本原理になる。一方で、「アリストテレス主義」的には、「そもそも、道徳と理性は切り離せない」として、「理性を正しく働かせれば、自ずと道徳的になる」というわけである。

 しかし、そこの反論は存在する余地がある。
『むしろ「人として」欠けたところがないことにどれだけの重要性があるだろうか、と道徳に懐疑的な人
は再反論できるのではないだろうか。皆が外道をいくのなら、自分だけが必死になって正道を歩む意味がどれだけあるのか。結局は、「人として」完璧であることを目指したい聖人だけが、道徳を大事にすればいいんじゃない?と反理性主義者は言うかもしれない。』(pp.298)

 そこには、「直観主義者」が存在する。つまり、道徳はいちいち理性の判断を必要とするものではなく、ことにあたって善くあるべきことを直観的に判断することができる、というわけである。これらの議論には、結論はない。
 
 この書の内容を、アリストテレスの「ニコマコス倫理学」の内容と比較すると、現代の人文科学が細分化されているための迷路を強く感じる。アリストテレスは、個々の疑問に対して、断言を加えている。さらに、その先の「形而上学(この日本語は好まないのだが、書籍の名称がそうなっているので、仕方がない)」の記述も、言葉の定義を含めて明快になっているように思う。現代は、個別最適解を求めるが故の議論が多すぎる。それはそれで、優れた論文として評価されるのだが、そのような状態はいつまで続くのだろうか。
やはり、「メタ」の視点は、一歩下がるのではなく、一つ上の次元で考えた方が良いように思う。