生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

メタエンジニアリングで考える日本文化の文明化(3) 第2話 文化に対するメタエンジニアリングの役割

2014年03月06日 19時52分10秒 | メタエンジニアリングと文化の文明化
第2話 文化に対するメタエンジニアリングの役割

メタエンジニアリングは、如何なるものを価値観の中心に据えて考えるべきであろうか。日本工学アカデミーの提案では、日本発のイノベーションの継続を目指したものだったのだが、社会科学的に考えれば、イノベーションの継続は、もはや経済発展だけのものであってはならない。それは、現代の人間世界が抱えることになった様々な解決困難な大問題をさらに大きくするだけのことになるであろう。

メタエンジニアリングによる価値観は、より根本的であるべきで、そこにのみメタエンジニアリングたる所以があると考える。それは、文明の継続と進化であろう。
文化と文明、文明と人間、文明における科学など過去に多くの著書が発表されている。そして、現代において文化と文明に最も大きな影響力があるのは、エンジニアリングである。このことは、20世紀初頭にハイデッカーが喝破したとおりに進んでいる。個々のエンジニアリングは現代文明をつくりだしたが、同時に現代の諸問題もつくりだした。

技術者がものごとをデザインする際に、文化や文明を意識することは皆無であった。かのアインシュタインでさえ、核兵器が将来の人類の文明に与える影響を深くは考えなかったのではないだろうか。しかし、逆説的に考えると、全ての文明がエンジニアリングの結果であるとするならば、エンジニアリングが先ず考えるべきことは、文明への影響であると云うことになる。そして、そのことを実践する手段がメタエンジニアリングの重要な一分野であろう。

文明と文化については、先に述べたように司馬遼太郎のアメリカ素描の文章が多くの識者によって引用されている。しかし、それはある見方であってほかの見方も多く存在する。先ずは、それらを少し調べてみることにする。世界中(とくにキリスト教圏)で使われている文明ということばと、日本での認識には微妙な違いがあることに気づかされる。

「文明と人間」東京大学公開講座33(東京大学出版会)1981には、伊藤俊太郎氏(科学史)の文章で、この様に述べられている。





「日本において“文明”を最初に論じた書物は福沢諭吉の「文明論之概略」(明治8年 1875)といってよい。ここで福沢が“文明”という言葉をどのような意味で用いたかというと、それは英語の「シヴィリゼイション」(civilization)の訳であるとことわり、「文明とは人の身の安楽にして心を高尚にするを云うなり、衣食を豊かにして人品を貫くするを云うなり」といい、「又この人の安楽と品位とを得せしめるものは人の知得なるが故に、文明とは結局、人の知得の進歩と云て可なり」としている。」とある。



これは、司馬遼太郎の定義とは大いに異なる。ついでに「文明開化」という言葉に触れて、西周がcivilizationを当時「開化」と訳し、両方が並存して「文明開化」の語が生まれたとしている。その後、日本における考え方の変遷と、諸外国特にヨーロッパにおける認識の歴史を述べた後で、やや結論的に「文化・文明の二つの考え方」として纏めている。そこを引用する。
「結局、これまでの話で“文化と文明”については二つの考え方があることがおわかりいただけたのではないかと思う。一つは文化と文明は本質的に連続したものであり、文明は文化の特別発達した高度の拡大された形態であるとするものである。したがって最初の原始的な状態は“文化”であり、それがある高みにまで発展して、広範囲に組織化されたものになると“文明”になるという考えかたである。(中略)もう一つの“文化と文明”に対する考え方は、“精神文化”と“物質文明”というように、これが連続的なものではなく、かえって対立したものとしてとらえるものである。つまり哲学、宗教、芸術の様な精神文化と、科学、技術というような物質文明は本質的に異なっており、一方は内面的なものであり、他方は外面的なものであり、一方は個性的なことであり、他方は普遍的なものであり、一方は価値的なものであり、他方は没価値的なものである、というような対立でとらえてゆく。」とある。

「文明・文化・文学」有賀喜左衛門著、(お茶の水書房)1980では、次のように述べられている。
「私が文化と考えているものは特定の民族が示している個性的な生活全体を意味しているのであります。これは通例いわれているように政治や経済、社会を除外したものではないと重ねていっておきます。だから特定の民族の歴史的、社会的、心理的、情緒的特質が認められるのであります。(中略。この間に、資本主義や共産主義が国によって異なった形態で存在することを例証として挙げている。)単純に言えば、特定の民族の文化は、他の民族に伝播させることができるのでありますが、伝播させることのできる文化は特定の民族から抽出することのできる側面であり、普遍化することのできる要素に限られているのであって、この民族の生活全体として他の民族に移し植えることはできないのであります。」
これは、司馬遼太郎の定義と同じ意味に捉える事ができる。



ここで、全ての解釈に共通することは、グローバル化のためには普遍性が必要であり、それは文化の文明化であると云うことであろう。文化に留まっていたのでは、いかに優れたものであっても、それのみでは文明に至らずに、その中の普遍的なもののみがグローバル化が可能になると云うことなのだ。また、それが可能なものは、優れた文化からのみ発することも自明である。そして、今後はこの役割もエンジニアリングの一端と考えなければならない時代になってしまっていると云うことではないだろうか。

さらに、「科学技術と知の精神文化」副題―科学技術は何をよりどころとし、どこへ向かうのか(社会技術研究センター編、丸善プラネット)2011の中で、村上陽一郎氏が次のように述べている。

「文明とよばれるには、文化にプラスアルファとなる「X」がなければならないのではないでしょうか。この「X」が、工業化や民主化のようなヨーロッパ近代の社会組織に係わるものとすれば、古代エジプト文明も、古代ローマ文明も、古代中国文明も、メソポタミヤ文明も、「文明」と呼ばれなくなるはずです。(中略)では、civilizerあるいはcivilizeという動詞、つまり「市民化する」とか、もう少し別の意味を用いれば「都市化する」と云う言葉は、どういう成立過程があったのでしょう。(中略)
すると、先ほどの「X」にあたるものはどういうものになるのでしょうか。「文化」になにがプラスされれば「文明」とよばれるようになるのでしょうか。私の仮説では、自然に対する攻撃的な支配が文明のもつ一つの特徴になると思います。つまり、自然を自然のままほおっておくのはむしろ悪であり、人間が徹底して自然を管理したり、矯正したりすべきという考え方が「X」に来るわけです。」
とある。
氏は、東大教授(教養学部、先端研)の後に、東洋英和女学院大学学長を務められ、科学史と科学哲学の第一人者とされている方だ。
これは、ハイデッガーの「技術に問う」と共通する考え方があるように思う。

この様な色々な文明に対する科学的な見方をとおして感じられることは、やはり、エンジニアリングが文明というものに対してもっと積極的に考察を深めるべきであると云うことでないだろうか。

日本の文化は世界的に見ても素晴らしいものだとの観念がある。それは、正しいと思う。しかし、文化と文明の違いを明確にすると、いかに優れた文化でも、普遍的でなければ文明にはなりえないと云うことなのだ。そこで、自己の文化における普遍的でない部分は何なのか、普遍的なものにしてゆくためには、何を考えて改善してゆくべきなのかと云う課題が見えてくる。この様な条件を総合的に考えてゆくと、メタエンジニアリングこそが、この様な「潜在する課題の発見」に最も適した、唯一の方法論であるように思われるのだが、いかがなものであろうか。
 このような思考過程で、「日本の品質文化」や「日本の省エネ文化」を考えてみた。これらは、日本発の「品質文明」や「省エネ文明」に育ててゆくべきものだと、つくづく思う次第です。



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