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その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

ジェットエンジンの技術(13)第16章 ターボジェットの時代(1950年代)

2024年05月01日 16時13分27秒 | 民間航空機用ジェットエンジン技術の系統化
第16章 ターボジェットの時代(1950年代)の民間航空機用エンジン

 この期間には、設計と生産技術の急速な進歩により、航空機の実用化が一気に進んだ。それは、このことが軍事面と民間面の双方で国力を左右するほどの産業と見なされ、特に英米で精力的に投資が続けられたことによる。大きな技術変化としては、 当初は、遠心圧縮機が簡潔・高信頼性の両面での優位性で用いられていたが、高速化に伴い、前面面積の小さい軸流圧縮機に変化していったことが挙げられる。また、アメリカではアフターバーナーを取り付けたジェットエンジンを戦闘機に搭載し1953年には音速の壁を破ることに成功した。

16.1 大洋横断用の大型エンジンの開発 

 ガスタービンは、間欠燃焼のピストン機関と比べて連続燃焼のために、小型・軽量で高出力が可能になる。つまり、ガスタービンは当初から航空用としての申し子の特質を備えていたと云うことができる。また、大量の空気流を必要とするが、高空では空気が清浄で圧縮機内の汚れが起こらず、出力逓減がほとんどない。さらにこの時代ではジェットの排気処理も気にせず、また騒音も上空では問題にならなかった。このような要因により、航空機用として、20世紀後半は航空用のガスタービンが全盛となった時代ということができる。
 しかし、発明当初からの問題であった熱効率の向上のためには,高温連続燃焼に耐える新材料の開発と高温部の効率的な冷却設計技術が必須となる。さらに、その双方に対して、超合金の精密鋳造と難削材の精密加工が高い信頼性により保証されなければならない。このために、エンジンの技術的な進歩は、その後約10年刻みで、段階的に進むことになった。

 圧縮機とタービンの空力性能が向上すると、主要エアラインからは、より大きな推力のエンジンが求められるようになった。しかし、圧縮機の段数が多くなると、低回転状態での低圧側と高圧側での流れが安定せずに、エンジンの始動が困難になった。そこで、圧縮機を二分割して、低圧圧縮機を低圧タービンで、高圧圧縮機を高圧タービンで駆動するという、2軸ターボエンジンが開発された。この発明によりP&W社は圧縮比13.1のJT3エンジンの開発に成功した。当時のRRのエイヴォンは6.5、GEのJ47エンジンでは5.1であった。


図16.1 アメリカ空軍のJ57 (JT3の米軍用識別番号)(9)

 1950年代の民間航空機の開発競争は、デハビラント社のコメットにより始まった。1949年に初飛行に成功後、改良を重ねて1951年1月に最初の量産型が英国海外航空に納入された。速度・高度共に前人未到の領域を飛ぶ初のジェット旅客機は、航路開拓も兼ねて2年間の準備期間を設け、その間に2機の試作機が世界各地に飛来し大評判になった。
1952年5月には初の商用運航が英国海外航空により実現し、ヒースロー-ヨハネスブルグ(ローマ、カイロ、ハルツーム、エンテベ、リビングストン経由)間での所要時間を一気に半減させた。 エンジンは、DHエンジンズ社のゴースト4機であったが、1953年にRR Avon503に換装された。

 コメット機は、従来のプロペラ機と航続距離が同様であり、大西洋横断路線の無着陸横断は不可能であった。しかし、従来の2倍の速度と定時発着率の高が実証され、ピストンエンジンと違い振動も少ないなどの快適性もあり、初年度だけで3万人が搭乗する人気であった。就航から1年の間に高速機に不慣れなパイロットの操縦ミスにより3機が離着陸時の事故で失われたが、乗客に死者は出なかった。

 しかし1954年1月に、イタリア近海を飛行中の英国海外航空機が墜落し、乗客乗員35人が全員死亡した。回収された残骸の状況などより空中分解が疑われ、英国海外航空はコメット全機の運航を停止した。
その後耐空証明を取り消されたが、問題部分と思われた個所を改修後に運航が再開された。しかし運航再開後の同年4月にも、イタリア近海を飛行中の南アフリカ航空機が墜落し、乗客乗員21名が全員死亡した。この二度目の空中分解を受けてコメットは再び耐空証明を取り消され、全機運航停止処分になり、そのまま姿を消した。空中における事故は、直ちに全員の死亡事故に繋がるために、特に民間航空機用エンジンの空中停止(in flight shut down)には、十分な配慮が加えられることとなっていった。

 その間に、米国ではボーイング社が大陸横断を可能にする大型の旅客機(Boeing707)を開発するために、大推力のエンジンを必要としていた。採用されたのは、P&WのJT3エンジンであった。これにより米大陸横断飛行時間は、半分以下にすることができた。
 さらに、パンアメリカン航空がニューヨーク-ロンドン間の飛行計画を実現するために、更なる大推力エンジンを要求し、P&W によってJT4エンジンが開発された。両エンジンの比較を(図16.2)に示す。



図16.2  JT3とJT4エンジン諸元の比較(3)

 JT4エンジンを搭載したパンナム機は、ニューヨーク-ロンドン間のコメット機の市場を完全に奪うことに成功した。新型の大型のエンジンを搭載した大型の航空機が、市場優位になる基礎が出来上がった時代となった。


図16.3  JT4エンジンのカットモデル(JAL提供)

このエンジンは、DC8機に搭載されFUJI号(識別番号JA001)として日本で活躍した。成田の整備工場にカットモデルが展示されている。

16.2 ターボファンエンジンの開発
 しかし大型化されたエンジンが排出する高速の排気ガスは、騒音問題を引き起こした。そこで、エンジンからの排気ジェットの速度を落とす対策が考えられた。ターボファンエンジンである。この理論は、1936年にホイットルが特許を取得していたが、エジンの要素効率が悪く実現はしていなかった。P&Wは、先に開発されたJT3エンジンの改良型のJT3Cエンジンにこの改良を加えて、JT3Dターボファンエンジンの開発に1958年に成功した。このエンジンを搭載した新型機は、離陸時の騒音を10デシベルも低減することに成功した。このエンジンは、20年間に亘り軍用機用も含めて8000機以上が生産された。この成功により、ターボジェットからターボファンへの変更が急激に進むことになった。

 DC8機は1958年に初飛行し、JALを含む太平洋横断飛行に多く投入された。1972年に生産が終了したが、多くの機体はまだ世界中で活躍している。例えば、機齢50年超の機体は国際ボランティア医療団の所有機として非常時の緊急輸送に従事し、新型コロナでも医療用機器を輸送した。大量の貨物と人員の安全輸送は、健全なエンジンのお蔭である。


図16.4 JALのDC8に装備搭載されたJT3D-3B
(JAL工場にて筆者が撮影)

 一方で、英国では異なる動きが続けられていた。ターボジェットエンジンの分野で独走状態にあったドイツの技術者は、敗戦と同時に米ソが招聘していたため、彼らの経験は使えずに、英仏は独自開発を余儀なくされていた。ロールスロイス社は、独自にエイボン・シリーズエンジンを開発した。このエンジンは、堅牢な設計のために多くの転用型も開発され、航空機用の生産は1950年から1974年までの間に11000台以上が生産された。また、RRはこの技術を用いて、船舶・産業動力向ガスタービンエンジンの分野への進出も盛んに行なった。

 世界の民間航空業界における大型ジェット旅客機の優位性は1950年代後期に完成された。従来の大型レシプロ旅客機を遥かに超える定員100名超の輸送力と、高空におけるマッハ0.8クラスの巡航速度を両立させた。この二つは、21世紀の今日もなお踏襲されている。また、この期間に開発されたターボファンエンジンは、これ以降の大型エンジンの主流となり、燃焼器を通過しないファン流量と燃焼器を通過する流量の比を表すバイパス比は次第に向上するものの、基本構造としては今日まで踏襲されている。また、JT3やエイボン・エンジンに見られるごとく、民間機用エンジンを軍用機用に改造、またはその反対に軍用機用を民間機用改造する手法も、それ以降踏襲されている。


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