生涯いちエンジニアを目指して、ついに半老人になってしまいました。

その場考学研究所:ボーイング777のエンジンの国際開発のチーフエンジニアの眼をとおして技術のあり方の疑問を解きます

禾乃登 稲が実る(処暑の末候で、9月2日から7日まで) 紅伊豆と佐々木園

2013年09月09日 11時12分32秒 | 八ヶ岳南麓と世田谷の24節季72候
紅伊豆と佐々木園
 
 甲府盆地の西北にあたる我が家の廻りは、今年は大きな天災も無く、稲の成長は至って順調なようだ。ブドウも同様だと聞いた。この季節になると私は、中央自動車道の笹子トンネルを出て直ぐに降りて甲州街道を走る。勝沼インターから2Kmほどの最初のブドウ園が行きつけの佐々木園。本当に小さな葡萄棚の下で、老夫婦だけで営業をしていたのだが、一昨年奥さんが急な病で亡くなられて、今はお爺さんだけの店になってしまった。



ここの奥さんはサービス精神が旺盛で、買った分の半分くらいをおまけしてくれた。畑は別にあるのだが、道端のそれは、紅伊豆と云う特殊な種類で、実がポロポロと落ちてしまうのだが、固定客のファンが沢山いるようで、売り切れでわざわざ梯子を使って採ってもらうこともしばしばである。
紅伊豆は、通常このような品種と言われている。鮮紅色巨大粒種。多汁で糖度高く、果肉が柔らかいので人気抜群。あまりにもシューシーで、柔らかいため発送には向かず、都会の店頭でほとんど見かけることはないため希少性が高い。完熟すると粒が取れやすくなり、市場に出荷し難いのだ。


柔らかいぶどうなので、袋を外すときや袋をかけなおすときに、袋と擦れることによっても粒が落ちてしまう。袋の口を大きく開けて、ぶどうが袋に触れないようにそ~っと袋を外したりかけるそうだ。



残された旦那さんと少し思い出話をしていると「家は、あそこのお寺の横に見える大きな建物なのだが、一人だと夜は怖い」と気弱なことを言っていた。もし、閉店でもされると、紅伊豆は二度と食べられなくなる。冷蔵庫には落ちたブドウの粒だけが沢山保管されており、相変わらずにおまけは沢山だ。
ブドウは、食べきれないものは、実をはずして冷凍にすると、いつまでも食後のデザートとして好きな数だけを楽しむことができる。これも教わった知恵だ。魔女の爪のビッテルビアンコも好きな種類になった。



 今回は、庭先でのBBQに数名の友人が来てくれるので、お土産用に少し多めの調達となった。紅伊豆を中心に5kgほどだったのだが、やはり足りずに倉庫から台車を出してきて収穫が始まった。実が多く落ちてしまった房は、皆その場での試食用になってしまう。そしてその上、「ドライブ中は喉が乾くでしょう」とほぼ2籠分のおまけまでもついてしまった。大正生まれのおじさん、来年もよろしくお願いします。












メタエンジニアリングのすすめ(4) 第3話 現代社会における科学とエンジニアリングの大問題

2013年09月03日 14時36分16秒 | メタエンジニアリングのすすめ
第3話 現代社会における科学とエンジニアリングの大問題

 一般の人からの科学に対する信頼が急速に低下している。福島第1原発の事故とその対応のまずさがそのことに油を注いでしまった。「科学技術の敗北」などという記事すら散見される。もはや、科学者の言動をそのまま信じる人は皆無であり、社会全体としてこの傾向は当分の間続いてしまうであろう。

 その理由は大きく二つに分けられる。第1は、科学と疑似科学が混在していること。第2は工学の分野での科学の具現化のそこここに誤りが存在すること。詳細は別途述べることにするが、インターネットの普及による情報の混乱と、技術の進歩の急速化が、従来さして問題にならなかったこの二つの問題を顕在化させてしまった。特に複雑な技術の進歩の急速化が現代人の脳の進化を大幅に超えていることは、生物学的には種の絶滅への方向を示しているとも云われ始めている。



 この問題を根本的かつ持続的に解決するために、科学と工学 (即ち、エンジニアリング)の間に、メタエンジニアリング(根本的エンジニアリングとも云われている)という新たな学問分野を置いてみることを試みてみようと考えている。科学の成果は自然界に存在するあらゆる現象なりものごとを論理的かつ合理的に説明することであり、それ自身に悪は存在しない。なぜならば、この宇宙は127億年の歴史があり、この地球は46億年の歴史がある。その間に全体が最適になるように変化してきた結果が、現在なのだから。従って、純粋に正しい科学を信頼しないことは、明らかに不合理なことに思える。つまり、科学への信頼性の欠如は、正しくない科学を科学と信じてしまうか、科学の使い方(即ち工学)に誤りがあるかのいずれかであろう。その二つの事柄を、より明確にして間違えを正す方法を考えてゆくことに、新たなエンジニアリングを適用する試みが、メタエンジニアリングの狙いである。なぜエンジニアリングという言葉に固執するかと云うと、産業革命に始まる現代の工業化文明下では、かのドイツの哲学者ハイデッガーが明言したように、エンジニアリングが全てを凌駕する時代が続いているからである。知的社会の到来と言われているが、当分の間はエンジニアリングが知的社会においてもその座を奪われることは無いであろう。

 更に欲張ってもう一つ「科学・メタエンジニアリング・工学」というテーマでメタエンジニアリングの主機能を提案しようと思う。それは、現代の工学分野に関する分類と纏め方についての新しい考え方である。
 工学は約2世紀に亘って様々な分野での専門化が急速に進んだ。そして、その細分化の弊害が顕著になり、境界領域とか俯瞰的統合化や融合・連携など色々な工夫が実際に試まれ始めている。しかし、工学の基本が「人の役に立つものことを、広い意味で設計すること」とする限りにおいて、この傾向には聊か疑問を感じてしまう。それは、私が長年にわたって航空機用エンジンの国際共同の設計開発の現場で色々な変化を見て来たからかもしれない。
 
世の中のもの作りの産業界は、随分前から技術指向(すなわちシーズ・オリエント)から顧客志向(ニーズ・オリエント)に急速に変化をした。もはや懸命な新技術の研究によるシーズ・オリエントで一時をリードをしても、最終的にはニーズ・オリエントを徹底する企業に負けてしまうという事例には事欠かない状態にあると云えるであろう。
 この様な見方で工学の学問分野をみると、依然としてシーズ・オリエントに固執しているように見えてしまう。そこで、メタエンジニアリングの機能との関連が出てくる。
 メタエンジニアリングは、工学的な発想や創造を従来以上の範囲に広げてゆこうという思想である。人⇒人間⇒文明・文化⇒哲学⇒人文科学・社会科学⇒自然科学⇒工学⇒技術という流れの中で、現代のエンジニアリングは、末端の3つのステップに集中して進化を遂げてきた。つまり、自然科学⇒工学⇒技術という流れである。しかし、このことが多くの公害や環境異変をもたらす結果となってしまった。好むと好まざるとによらずに、この傾向はグローバル競争時代にはますます激しくなることが予測されている。そこで、それを正す一つ方法として考えられるのが、エンジニアリング自身の思考範囲を「文明・文化⇒哲学⇒人文科学・社会科学」という上流まで遡らせるという考え方である。
 つまり、工学の価値の原点を科学分野から直接に求めるのではなく、「文明・文化⇒哲学⇒人文科学・社会科学」という場に置いて、そこから生じる価値を上位に置いて括りなおしてみてはいかがなものであろうか。
 例えば、幸福度・安心度・環境の向上・文明の進化といった具合である。この価値は、便利とか安いとか簡単にとか、より合理的にといったものとは異なり「文明・文化⇒哲学⇒人文科学・社会科学」という場から生じるものでなければならない。工学は現状の延長上にあるとして、科学と工学の間に思考の場を持つ新しい工学の考え方として「メタエンジニアリング」の主機能を定義する試みを、第2の狙いとしてみようと思う。
 このことは、例えばここ半世紀に亘って色々な視点から検討が行われている地球環境問題を例にとると、より明らかになるのだが、詳細は別の話に譲る。更に、大きく考えると、優れた文化の文明化といった命題が見えてくる。文化は本来固有のものであり、文明の視点から見ると不合理な要素が多々存在する。しかし、優れた文化は人類共通の貴重な資産である。そこで、すぐれた文化を文明化することにより、より好ましい持続的社会を構築してゆくための広義のエンジニアリングとしての機能を考えてみようと思う。
この問題は、一見社会学のテーマとも思われるのだが、かのハイデッガーの言葉の通り、現代の技術社会においては、エンジニアリングがその具体化を果たす機能を有すると考えられるのではないだろうか。

 聊かドンキホーテ的な発想なのだが、数えてみると今日は私が産まれてから24637日目である。つまり、後1年足らずで目標とする人生3万日に対して5000日を切ることになる。残りの期間にかける一つの夢として、この問題を追いかけてみることにした。

メタエンジニアリングとLA設計(8) 工学部は何を目指すかという場でのメタエンジニアリング(その2)

2013年09月02日 09時16分53秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts

第5話 工学部は何を目指すかという場でのメタエンジニアリング(その2)

 工学部は何を目指すか、中島尚正編、東京大学出版会(2000)には、多くのことが書かれている。しかし、メタエンジニアリングの見方からは、やはり大きな疑問を感じざるを得ない。(その1)では結論の部分を引用して、メタエンジニアリングとの関連について述べた。(その2)では各論について検討をしてみよう。


第2章のタイトルは、「21世紀の社会と環境に責任を持つために」であり、ここにメタエンジニアリングとの共通点をみることができる。2,2項は、「社会の人と活動を支え、文化とともに歩む」とある。その中で、工学の概念に関する記述にはこの様にある。(P124からの引用)
「・世界の安定化に貢献する工学の概念
 この様な課題に対して、工学の果たす役割はいったいどういうところにあるのだろうか。まず第一の課題として、世界の安定化のメカニズムの理解を工学の分野でも進めることである。安全保障問題は、これまで社会科学系、とくに政治学や経済学の研究対象であった。しかし、これからの工学では、国際社会全体に起きている変化を理解して初めてその役割を論ずることができる。とくに、自然科学/工学研究者を志す学生や研究者が、価値観や哲学の重要性を認識し、みずから研究対象や開発成果が、国際社会の安定化にどのような意味を持つかを考えるような教育が必要となる。」
この記述は、メタエンジニアリングの基本思想に一致をすると考えられる。ここでは安全保障問題が唯一の例として挙げられているが、地球環境問題、原子炉の安全性と信頼性の問題、水の問題など枚挙に事欠かない問題が山積している。現在、これら多くの問題は国際会議の場でも、南北問題や経済問題に阻まれて有効な結論を得ることが困難な状態にある。しかし、何れの問題についても、最終的に根本的な解決策を考えて実行するのは自然科学者と工学者と技術者、つまりエンジニアリングによる社会への実装である。正に「これまで社会科学系、とくに政治学や経済学の研究対象であった。しかし、これからの工学では、国際社会全体に起きている変化を理解して初めてその役割を論ずることができる。」ということだと思われる。しかし、残念なのは、「自然科学/工学研究者を志す学生や研究者が、価値観や哲学の重要性を認識し、・・・」の部分が抽象的な表現でおわっていることである。この前提条件をもっと具体的に追及して、かつ実行しなければ、この議論を力のあるものにすることは不可能であろう。その機能を担うのが、メタエンジニアリングの一つの基本機能であると考える。

 更にこの議論を進めるならば、このことは短期的には世界の安定化に貢献するということだが、実は21世紀は更に深刻な問題に直面している。それは、人類の文明の岐路に差し掛かっている現状認識から来る。多くのイノベーションが急速に世界全体に広がって行き、その速度も複雑性も増加の一途である。しかし、哲学的・生物学的に見て間違いなく正しい方向に向かっているのだろうか。そのような設問に直面すると、最早安定化云々を越えて、人類社会の文明の向上と持続性という命題にまで行くべきであるように思う。
 なを、先の第3場で示された「提言」は、その後内容がより充実されて、「震災後の工学は何をめざすのか、東大工学系研究科、内田老鶴圃発行(2012.7)」として出版された。



 この中では、想定外の事態に対する脆弱性が問題発生の源であるとして、「レジリアンス工学」の創成が重要視されている。(P340からの引用)
「今回のような震災に立ち向かうためには、災禍の損害から早期の機能回復が可能な技術社会システムを実現するための、レジリアンス工学とも呼ぶべき新分野を確立することが必要となっている。これまでの工学が、どちらかというと「想定内の範囲内だけで考える」工学であったのに対してレジリアンス工学では「想定外のことが起きてもなんとかなるようにする」ための工学である。今回の(震災の教訓として、工学はこうした課題にも取り組むことが必要である。)
と述べられている。更に、その章では、「緊急対応工学の創成」という節が設けられている。

 このことは、もちろん必要なことで、何故今までそのような分野が工学として存在しなかったかの疑問が生じた。例えば、航空機用エンジンの設計の際には、この「想定外のことが起きてもなんとかなるようにする」ための設計は、いやというほど色々な工夫を盛り込んでいる。これは、広い意味での予防設計と言える分野かもしれない。そして、その設計のためには、先に述べたように、文化や文明や哲学への絶対的な理解が必要であり、そこにDesign on Liberal Arts Engineeringの原点がある。

ここまで色々な例を述べてきた。結論として感じることは、過去の経験から工学やエンジニアリングが専門知識の範囲だけでの行動が大いに問題有りということだ。その為に、もっと視野を広げよう(俯瞰的)とか、連携を深めよう(境界領域)といった動きが始まったのだが、それ自身がまた専門領域になってしまうと云う現状が見えてくる。このことが過去数十年間繰り返されてきているように思える。
 この動きを変えるには、新たな発想としてのメタエンジニアリングが必要であり、それに基づく広義のデザインが、Design on Liberal Artsと考えるわけであるが、いかがなものであろうか。


メタエンジニアリングとLA設計(8) 第6話 メタエンジニアリング設計技術者の育成

2013年09月02日 09時15分37秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts
第6話 メタエンジニアリング設計技術者の育成

・知識・経験・知力(知識+経験=知力)

LAE(Liberal Arts Engineering)的設計に必要な知力を如何にして身に付けてゆくか。
 日本の戦後教育は知識偏重で、知力が足りないとよく言われる。設計は、膨大な情報から一つの特定された解を形に表すもので、知識だけではどうにもならない代物であり、知力が基本要素と思う。知力とは、ある言い方をすれば、「出来るだけ少ない追加の情報で、新たな正しい判断が出来る能力」である。つまり、アリストテレスが提唱したフロネシスである。アリストテレスが知を五つに分類したうちの、直感的に原理を把握するヌース(知性)、真理を見極めるソフィア(智慧)、客観的知識としてのエピステーメ、物をつくりだす実践的知識としてのテクネ、の4つは教育現場でも良く取り上げられている。しかし、「豊かな思慮分別を持ち、一刻ごとにかわるそのつどの文脈に応じた最適な判断や行為を行うことを可能にする」能力であるフロネシスについては、あまり語られることは無い。知識を学ぶことは容易であり、それを基に知性は磨かれるであろう。しかし、知力を身に付けることは経験を積む以外には中々に難しい。設計技術者である私は、一つの手段として「Whyの追及」をやって来たように思う。

Why(何故)を常に考えて、不適切な改善や変更を無くす。聊か詳細に過ぎるが、航空機用エンジンの設計担当時代に記したことを引用する。
 「設計変更や工程変更が不適切であったために発生した不適合が散見される。これは、変更した人が「なぜ、従来そうなっていたか」を十分に理解していない事に起因すると思われる。特に、あまり重要でない部品にこの傾向が強く見られるが、重要でない部品であっても、エンジンの機能部品の場合には大事故に繋がる場合がある。実際に起こったことなのだが、ベアリング潤滑用のオイルポンプ内のひとつのO(オー)・リングの寸法公差の範囲内での変更により、ヘリコプタが海面着水で動けなくなった事故例を説明に使うことにしている。」

江崎玲於奈さんが講演で、「20世紀はWhatの追求の時代でしたが、21世紀はWhyの追求の時代だと思う」とおっしゃっていました。Whatばかりを追い求めると、人類撃沈の恐れがあるからでしょう。
 私は、新開発の設計ばかりをやってきましたが、ある時に何時の間にか設計変更をされた部品(小さな機能部品)のあることを知ってびっくりしたことを思い出します。その時は、それが原因で大きな事件が起きていました。技術部長の時代に何度もいっていたことは、「設計変更をする者は、オリジナル設計者よりも能力が必要。そうでないなら、なんとしても変更前にオリジナル設計者の意図を確かめること」でした。
 設計変更や工程変更をする場合には、極力 元の作成者の意図(Why)を調べること。それが不可能な場合には、なぜそうなっているのかをよく考えること。一見、無駄があるような設計や工程にも、それなりの技術者の意図があるものと信じることです。改定理由を示す伝票の類に、「何故改定をしたかの理由」をきちんと記述する習慣を身に付けること。「誤記訂正」と書いてあったのでは、後の人に何も伝わらない。

昔の話ですが、Rolls-Royce 社との共同開発では、お互いにDesign Scheme(本来の設計図であり、製造用の図面ではない)を見せ合い、議論をした。そこには、寸法を決める際のWhyが常に文章なりデータで書き込まれていたので、私はこのDesign Schemeというシステムを全面的にプロジェクト全体で適用をした。一見、製造用に製図された図面との重複があるように見えるのだが、後者では「Why」は全く伝わることは無い。しかし、現場を離れて十年後に、この習慣が全く忘れられたことを知った。
Whyを知らずして失敗をした工程変更の例は、JTOの話(核物質の臨界事故)が有名だが、鋳造されたタービン翼のオーバーブラスト事故なども同じ原因(最初の設計者の意図が分からずに、無駄と思い込み ある鋳物形状の部分を取り除いた)だった。設計技師とは、「Whyを考える人」といってよいと思う。


・技術ノウハウはWhyを蓄積する(What&HowとWhyの違い)

WhatとHowとWhyは混同しがちだが、全く違うものだとの強い認識が必要です。
私は、20年間新エンジンの設計に従事して、当時では国内で唯一人の実用された商用ジェットエンジンのチーフデザイナーだと思っていた。技術者にとって常に一番大切なことはWhyだと思う。しかし、最近はWhyが軽視されており非常に危険な状態にあると感じている。
 私が設計の現場を離れてから20年以上が経ったが、20年の間にWhatとHowはずいぶんと変わったと思う。しかし、Whyはそんなには変っていない。
 設計や技術に関する、ノウハウや標準化が形式知化のために進んでいるが、WhatとHowに捉われているように思える。Whyを引き継ぐ事が重要で、Howは寿命が短い。極端な場合は新たなエンジン毎に新しいものが導入されるくらい進歩が激しい。古いHowに頼っていては良い設計はできない。反面、Whyが本当に分かっているのでしょうか、といった疑問に多くの場面で遭遇してしまう。
従って、HowとWhyの認識の区別が重要になるわけです。私は、設計課長時代にこのためにAero Engine Design Standard 「AEDS」を作りました。中身は、「何故そういう設計になるのかの理解」を重視して、計算方法などはむしろ設計者本人次第として敢えて標準とはしませんでした。残念なことに、この伝統も10年ほど前に倉庫の奥で消えてしまいました。

糸川英夫さんは、著書「日本創生論」のなかで、こう断じて居ます。「Howばかりで、WHYの無い国」の文中からの抜粋。



「「なぜ」と問う姿勢が、伝統的に欧米人の思考法の基盤になっている。これに対して、日本的思考法の基盤は、「いかにして」(How)である。たとえば、日米構造協議にしても、日本側は相手方の矛先をいかにしたら(How)うまくかわせるかに終始して、なぜ(Why)このような問題が起こってきたかにかかわる部分はすべて素通りしてしまう。」

再び、過去の文章を引用する。
「設計の品質の低下を嘆く声を現場でよく聞かされる。開発のスピードは上がったが、同時に設計品質も向上したのだろうか。このところ、設計品質の確保は設計審査の強化や10個のトールゲート制度などのチェック・システムの開発と管理に重点が置かれており、肝心の創り込み技術の向上は、かなり手薄になっているように思える。
 設計はHowではなく、Whyであり、Howばかりが上達した計算の達人には正しい品質の設計は期待できない。設計者個人の創り込み技術の育成はどのように行われているのであろうか。かつてVプロジェクトの開発設計時代には、欧米各社の開発設計技術を日常的に取り込みAEDS(Aero Engine Design Standard)に纏め、若手の設計者には先ずそれを学んでもらった。また、中堅の設計者はAEDSを作ることにより、自らの技量をブラッシュアップしてもらった。今ではAEDSは電子化こそされたが、長期に亘って改定や増補はされずに興味を持った人が歴史の遺物として時折覗くだけのものになっている。WhatとHowとWhyの違いを良く認識して、「技術ノウハウの蓄積はWhy」を徹底しければいけない。」


メタエンジニアリングとLA設計(6) 工学部は何を目指すかという場でのメタエンジニアリング(その1)

2013年09月01日 15時43分43秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts
第5話 工学部は何を目指すかという場でのメタエンジニアリング(その1)

 工学部は何を目指すか、中島尚正編、東京大学出版会(2000)には、多くのことが書かれている。編集委員には当時の小宮山教授など30名の錚々たる名前が列挙されているので、この内容についてコメントをすることは、なんとも気が引ける。しかし、メタエンジニアリングの見方からは、やはり大きな疑問を感じざるを得ない。
「工学部は何を目指すか」のテーマに対する第1場は、1968-69の所謂東大紛争であろう。編集者の中島さんも私も、当時その大学の大学院に在籍をしていた。そして、その期間中に全く新たに、機械系大学院自治会などというものを組織して、数名の教官とともにこの問題について議論を重ねたことが思い出される。その際の主なテーマは二つで、①工学部からの社会への発信は如何に考えるべきか、②学生が学部の建物の全面封鎖を実行する際に、我々はいかに対応すべきか、であった。その時の議論の詳細は別途に譲るとして、この直後のことがこの書に記されている。




第1場 1968-1970 (P300からの引用)

「真摯に議論を重ね、将来ビジョンをまとめるという作業は、実は今回が初めてではなく、東大紛争以来の出来事です。紛争中、それに続く百家争鳴の時期に、工学部教官によって書かれた数多くの文書は、「新しい工学部のために」(東京大学出版会、1969年)、「工学部の研究と教育」(東京大学出版会、1971年)という2冊の本に収められています。その後半には、紛争に関する興奮した論述や理念論を離れて、冷静な分析にもとづき、工学部のあるべき姿、改革への提言が述べられています。その中から、いくつかの文章を紹介します。
 工学部が今後の社会においてますます比重を高めてゆくことを考えたとき、社会に対して開かれていない工学研究というものはありえなくなる。(・・・)しかし、このことはいたずらに有用性、実用性を重視した研究を行うことを意味しない。近年における個々の技術の発展が生み出した種々の好ましくない波及効果の累積は、工学のあり方に多くの新しい問題を生み出した。この様な技術の発展に置ける予定調和性の喪失にいかに対処すべきかを考え、工学研究の対象をあらゆる人間活動の場に広げるという意味で社会に開かれた研究が今後の大きな方向になる。このことはまた従来の学科中心のあり方からははみ出す種々の境界領域を積極的に開拓することの必要性につながる。
 科学と工学の進歩は人類を幸福にするという信仰が、妄想に堕しつつあるときに、工学者は工学を越えた次元からの問いかけに、答えるように要請されている。このことは、専門の工学教育において、その社会的波及効果をも研究対象にくり入れて考慮すべき責任が生じつつあることを意味する。また、従来の専門工学の境界を越えて、他の学問分野と必然的に関連することを予想させる。(・・・)「工学を越える工学」を志向し、混沌の内より、新しい体系を創造しようとすることこそ、今後の工学研究の基本的命題であろう。」と記されている。

 さて、最後の「工学を越える工学を志向し、混沌の内より、新しい体系を創造しようとすること」は、メタエンジニアリングということはできないであろうか。私は、この時点の問題は、この様な新たな体系を模索する中で、具体的には境界領域のみを志向したところにあると思う。そして、そのときに産まれた多くの境界領域は時代の流れとともに、本来の「この様な技術の発展に置ける予定調和性の喪失にいかに対処すべきかを考え、工学研究の対象をあらゆる人間活動の場に広げるという意味で社会に開かれた研究が今後の大きな方向になる。このことはまた従来の学科中心のあり方からははみ出す種々の境界領域を積極的に開拓すること」から次第に離れて、再び従来の学科と同じ専門化の道を進んでしまったのではないだろうか。アリストテレス的により総合的、根本的な方向に向かえば、工学はもっと社会から信頼を得られる方向へ向かったように思う。

第2場 1999-2001

 この時代は、この書籍の題名にある著書が纏められた場に相当する。
この書の「終わりに」に、次のような結論が書かれている。前節の第1場の主張を紹介した文章に続けて、「本書における主題と驚くほどに完全に一致した主張を20年前の文章に発見し、なんとも不思議な気持ちにさせられます。(・・・)現れる言葉は同じであっても、「社会」の意味するところは時代によって変わってゆきます。富国強兵の時代における「社会」は国家であり、戦後復興・高度成長経済のときの時代における「社会」は産業でした。いま、時代は産業のための工学から、個人の集まりとしての社会とともに歩む工学に変ることを求めている。それが本書の生まれた背景であるかもしれません。」
 この文章は何を示唆しているのだろうか。20年前の提言が実行されなかったことを意味するのだろうか。更に、次の10年、20年を見据えたときに、今回の提言が20年前の提言と同じ結果を生み出すとの予言なのだろうか。学問としての工学と、実学としてのエンジニアリングの大きな違いを強く感じてしまう。

第3場 2010の 3.11東日本大震災と福島原発事故の直後の提言
 
福島原発事故の直後に、前節とほぼ同じ陣容のグループから冊子が発行された。東京大学大学院工学系研究科「緊急工学ビジョン・ワーキンググループ」から「震災後の工学は何をめざすのか」という題名であった。



1. 今問われる工学の使命と役割― 諸君の挑戦こそが未来を拓き築きます ―
3)工学者としての見識からの文章を引用する。
「私たち工学部・工学系研究科で教鞭を執り研究を進める者は、工学者として直面する課題を正視し、深く客観的に原因を究明して課題を整理し、冷静な判断の下に適切な計画を立案し、工学者として見識を示す必要があります。その見識は純粋に科学技術に立脚した中立なものでなければなりません。その上で、社会や産業と密接に関係した工学は、様々な状況に置かれている様々な人々の考えや意見にも謙虚に耳を傾ける必要があります。科学技術で国の礎を築く大学の役割、少なくとも工学部・工学系研究科の役割とはそういうことと認識しています。
(中略)
5. 工学の新しい潮流
工学は現代に至るまでに伝統的とも言うべき基礎基盤工学の学問領域と、特定のシステムや対象を取り扱う総合工学と言うべき学問領域に発展してきました。基礎基盤工学としては電気、機械、物理、化学、材料、情報、土木、建築などが相当し、総合工学は原子力や航空、都市などが代表的です。今回の震災とそれに続いた原子力発電施設の事故や電力供給危機は、改めて基礎基盤工学と総合工学との関係について考えさせられます。例えば、総合工学の典型である原子力工学は物理、化学、材料、電気、機械、建築、土木など様々なディシプリンdiscipline を内包していますが、これらのディシプリンは基礎基盤工学では伝統ディシプリンとしてそれぞれ存在しています。この互いに対応しあうディシプリンは今回の事故に対してうまく連携できていたのでしょうか。第三章を読むと、その連携は必ずしも十分でないことに気がつきます。本章では、震災を契機に、工学の在り方を改めて 見つめ直し、レジリアンス工学や緊急対応工学など将来に向けた新しい工学の潮流について考えます。
(中略)
5.1 学際化する工学研究の課題
5.1.1 学際化する工学研究と巨大化する複雑系研究対象
基礎基盤工学と総合工学の関係は学際領域 interdisciplinaryや複合領域 multidisciplinaryと言う言葉でここ20年くらいの間で急速に意識されはじめました。学際領域や複合領域とは、学問の領域が伝統的な一つの基礎基盤工学のディシプリンに収まらずに、複数の学問領域が融合しあったり複合しあってできる新たな学問領域のことを意味します。そして、一度確立した学際領域や複合領域は自立して総合工学として発展していくものもあります。例えば、原子力工学は半世紀前に学際研究として誕生し、その研究対象であった原子力発電システムは巨大複雑系システムに発展し、原子力工学は学際化した巨大複雑システムの工学として進化してきました。こうして工学は時代に即して、あるいは時代の課題に即して、様々な総合工学の学問領域を作ってきました。こうした柔軟性が工学という学問領域の特徴ともいえます。さらに、学際化や複合化は今や総合工学だけでなく、礎基盤工学の各領域自身でも起こっているといっても過言ではありません。先端研究では学問の学際化や複合化がどんどん進んでいます。

問題は5の「その連携は必ずしも十分でないことに気がつきます。」というくだりだ。さらに5.1.1で「基礎基盤工学と総合工学の関係は学際領域 interdisciplinaryや複合領域 multidisciplinary と言う言葉でここ20 年くらいの間で急速に意識されはじめました。…………」

このような説明があるのだが、長い間、充分でなかったものが、課題として上げることによって果たしてどの程度に充分になるのであろうか。もっと、さらに根本的なところにまで進むべきではないだろうか。「融合しあったり複合しあって」といった表現で、すまされることではない。必要なことは「連携」からいったん離れて、真の「融合」と「統合」である。真の「統合」「融合」は、一つの開発チームの中のことであり、一人のエンジニアの頭の中のことである。

このことを、私は1990年当時のGE社とUnited Technology社から学んだ。実際の新型エンジンの開発チームの組織に対する考え方が従来と全く変わったからである。それまでの開発チームは、所謂臨時のプロジェクト・チームであり、関係各部署の代表者の集まりであった。当時、米国の数社で始められたCOE(Centre of Excellence)という考え方は、代表者の集まりではなく、独立した権限を持つ恒常的な新組織であった。
専門のオフィスを持ち、専門の工場を持ち、その全ての運用に対して独立した権限を持つと云うものであった。そして、多くの独立組織のトップには若手の有能な人材が充てられた。

メタエンジニアリングとLA設計(5);失敗の本質とメタエンジニアリング

2013年09月01日 15時00分46秒 | メタエンジニアリングとLiberal Arts
第4話 失敗の本質とメタエンジニアリング


日本工学アカデミーが提案した根本的エンジニアリングは、その目的の一つを優れたイノベーションの持続であるとしている。その為の方法論が第1話で示したMECIサイクルと呼ばれるものであるが、発想法がいかに優れていても、肝心のI(Implementation)即ち社会への適用がおろそかでは結果として失敗となってしまう。最近の日本の製造業にはそのような例が後を絶たない。そこで、失敗の本質を色々な角度から考察する必要性が生まれる。


このことを、失敗の本質、戦場のリーダーシップ編、野中郁次郎編、ダイヤモンド社(2012) を基に考えてみることにする。この書は最近出版されたものだが、以前に出版された同様の著書からの数年間の準備期間の痕をその内容から感じることができる。多くの例題は日本の旧陸海軍の話だが、その歴史的事実にも成功と失敗が入り乱れている。そして、その差異を世界的な歴史事実とも照らし合わせて、失敗の本質を追究している。そして、副題に示されたように、主要なテーマはリーダーの素質である。



先ずは組織論。「開かれた多様性を排除し、同質性の高いメンバーで独善的に意思決定をする内向きな組識であった」が失敗の本質の一つであるとしている。これは福島原発事故で再三指摘をされたことに共通している、所謂「むら社会」であろう。エンジニアリングにおいても、先ず避けるべき要件なのだ。
次に、「リーダーに求められる6つの能力」は、
① 「善い」目的をつくる能力
② 場をタイムリーにつくる能力
③ ありのままの現実を直視する能力
④ 直感の本質を概念化する能力
⑤ 概念を実現する政治力
⑥ 実践知を組織化する能力
であり、これらを具備した者を「フロネチィク・リーダー」と称するとしている。

フロネチィク・リーダーの育成に必要な事柄が色々と述べられているが、最大の課題はリベラルアーツ教育の拡充であるとしている。「近代日本では、西洋の列強に追いつけ追い越せとばかり、法学、工学、言語等の実学を重んじた結果、欧米諸国のリベラルアーツ教育が重視した教養、すなわち文法・論理・修辞学の三学問や、天文学,幾何学、算術、音楽などのアーツ、それに哲学、歴史などを学ぶ意義が顧みられることはなかった。」また、「先ほど成功と失敗の経験の重要性を指摘したが、もう一方では教養(リベラル・アーツ)も重要な要素である。哲学や歴史、文学などを学ぶ中で、関係性を読み解く能力を身につけることができる」とある。
この文章から感じることは、現代日本のグローバル化を求める社会の現状との相似性である。

また、このことはメタエンジニアリングとの共通性がおおいにあると思う。なかでも、グローバルな事態における指揮官の資質として、哲学と異文化理解力が重要としている。「戦闘部隊の指揮官には軍事専門能力だけではなく異文化理解力、すなわち現地の政治・経済・社会・宗教等の幅広い知識が求められる。」である。主語を「グローヴァル・イノベーションを目指すエンジニア」に代えても全く同じことであろう。逆にいえば、哲学と異文化に対する正確な理解のないままに突進をしても、失敗をするであろうということなのだ。

 リベラルアーツとフロネチィク・リーダーについては、詳細な説明が加えられている。
「アリストテレスが提唱したフロネシス(賢慮)という概念がある。そもそもアリストテレスは知を五つに分類した。直感的に原理を把握するヌース(知性)、真理を見極めるソフィア(智慧)、客観的知識としてのエピステーメ、物をつくりだす実践的知識としてのテクネ、そして、豊かな思慮分別を持ち、一刻ごとにかわるそのつどの文脈に応じた最適な判断や行為を行うことを可能にするフロネシスである。」と説明をしている。その上で、これらを先ほどの6つの能力に纏めたわけである。ここで、テクネがエンジニアリングの最も近いことではあるが、他のものを加えれば、それはおのずとメタエンジニアリングになるのではないだろうか。また、「ありのままの現実に身を置きながら、見えない本質をいかに直感し、概念にするか、それを可能にするのが実践知であり、それを備えているのがフロネチィク・リーダーである。」とも述べている。正に、メタエンジニアリングそのものと共通であると云えるのではないだろうか。